【雑記】思考とは言語なのか、音楽とは人なのか、人はみな人なのか。

 久々に脳内思考を「他人に通じる汎用言語」に差し替えることなく垂れ流していきましょう。ブレインダンピングの薦めは下記より。

雑記:ブレインダンピング~思考を言語化することの重要性~

※ブレダン実録に関しての注意点:通常の記事とは違い「誰かに発信すること」「何かを主張することを目的とした文章ではありません。あくまで自然発生的な思考実験の一例として見てください。また、ターゲットを持たない思考そのままの文章であるため「文章の内容の本質が伝わる可能性」も担保していません。分かりにくくても当然でありかつ、分からないものに触れてみるのも一興とした試みです。


母国語も一種の外国語?

頭の中で考えることを他人伝えるとき、たとえ母国語でも無意識に

「日本語に翻訳する」

というプロセスがある。

 「母国語ならそんなプロセスはない」と言うかもしれないが、頭の中の思考をそのまま言語化すればほとんどの同国人にも「言葉は伝わるけど意味は全く伝わらないor間違って伝わる」ことはそう珍しくない。

 他人に説明する時に擬音語や「何となく」「アレ」などといった抽象的な言葉しか出てこない人などは典型例だが、そうでなくても「本人がその言葉に込めた意図」が伝わらない場合は多々ある。

 その原因としては「本人の語彙力、言語力が不足している」場合もあれば、「受信者の思い込みにより勝手な歪曲を加えた解読が行われている」場合もある。特に後者は回避しきることがなかなか困難だ。

 一般的にはこのプロセスによる汎用化が優れている人間のことを「説明力がある」「日本語力がある」などと表現する。

 しかし、伝えたい内容が汎用的でなくなればなくなるほど、この工程がなかなか難しい。どれだけ豊富な語彙力や流麗な日本語表現を心がけようとも、「本人が本当に伝えたい内容」がピタっと当てはまるとは限らないからだ。

 「日本語」という枠組みの中では使用できる「ことば」の数は限られている。しかし、人の思考は無制限空間であるがゆえに、「日本語には存在しない概念」が紛れ込むことは全く珍しい事ではない。

 そうした中で、限りなく「本来の意図」に近いものを伝えられる日本語を模索していくのが、日本語への翻訳という作業である。

 なお、音声による会話の場合は日本語への翻訳だけでなくさらに音声への変換という工程が加わるため、より一層「伝えたい内容」が削ぎ落ちてしまったり歪曲して伝わってしまったりするリスクは高くなる。

 個人的にはこの音声変換の際に抜け落ちるデータ量が多いので、他人と言語のやり取りを行う際には極力文字で行いたい方だ。文字ですら本来の意図を伝えるには多くの言葉を要するくらいなのだから(なので大抵は諦めて「ある程度伝われば御の字」とする)。

 

音楽という言語
 例えば好きなミュージシャンの音楽においても、売れ線の曲は一般向けで薦めやすくても、ややマイナーなものは好きだけど他人には薦め辛いとか、さらに一部の楽曲などは愛好家である本人にも理解が及ばないことすらありえない話ではない。特に才能があるとされるミュージシャンほどそういう傾向があると私は思う。

 しかし、作曲した本人にとってはその難解な”曲”こそ最高傑作で、また本人にとっての素の言語、つまり一般人向けに翻訳していない音楽言語がそれそのものなのかもしれない。音楽という表現方法それ自体が1つの言語であり、または音楽とは「その人そのもの」を音声に翻訳したうえで表現するものであるのかもしれない。

 すると、大衆向けに分かりやすく妥協した音楽、売れ線になるようにキャッチ―な曲調にした音楽は、本来の作者の意図からすると妥協の産物に過ぎず、「本当に伝えたい何か」を諦めた無念の発露である場合もないわけではないだろう。

 一方、高尚なものを好むと自負したい人間の中には、評価の高い芸術を良くわからないまま摂取して語ったり、あるいは自分で見極めがつかないから短なるゲテモノの芸術を傑作であると思い込んで評価したりすることもあるだろう。

 このような葛藤と苦悩を抱えるのが優れた表現者の宿命ならば、 その最終的な解、そして最高の音曲として「自らの死」を奏でる者が珍しくないこともまた、不思議なことではないのかもしれない。決して誰かに通じることのないそれこそが真の自己であるという、筆舌に尽くしがたい感情を抱きながら。

 

共同幻想意識の恐ろしさ
 そう考えると、「同じ人間だから」とか、「同じ日本人だから」という安直な共同体意識ほど怖いものはないと改めて感じさせられる。これが外国語なら「通じなくて当たり前」となるが、一見して通じているように見受けられるが実は全く通じていない言葉はいわば、交わらないねじれの位置の直線のようなものである。

 その結果、互いのことを永遠に誤解しあったまま終わってしまうこともあるだろう。下手をするとその勘違いにより関係性自体がこじれてしまうリスクも決して小さくない。

 特にインターネット界隈で時折語られる「画面の向こう側には同じ人間がいるんだよ」と言う教誨も、その大前提として、他のホモサピエンスの個体のことを「同じ人間」であると言う認知を基礎として抱いていること、そしてさらに根本的な問題として、「自分自身を人間、ないしは日本人であると思っていること」が必須であり、そうでない者に対しては何ら意味を持たない教えになる。

 何なら、人間そのものを悪であると見なす人物や、他人を攻撃すること自体を愛好する人物にとっては(そんな人はいないという思い込み自体が共同体意識の見る幻想である)、「そう言われると却って悪質行為を行いたくなる」と思ったとしても決して不思議ではない。サイコパスでなかろうともこうした物事への視点そのものが異なるケースは全く珍しい事ではない。

 

“異なる生き物”としての階級
 政治家をはじめとする支配者階層の人々にしてもそうだ。彼らの多くが「いい人」であることは偽りではく「周囲の人」に対する親切さも本物であることは確かにあるのだろう。人類社会のため、という熱意を持って行動している人も決して珍しいものではないように見受けられる。ただし、ただ単に彼らは大衆を「同じ生き物」だという発想を持っていないように見える。

 彼らが人でないのか、我らが人でないのか、両方ともそうでないのかは分かりもしないが。 であるがゆえに、彼らは彼らなりの理想を叶えるために善意で行動し、家畜たる大衆を導こうとするが、 当然のように自らも彼らも同じ人であると認知する大衆は、彼らを無能なり悪なりであると見做し糾弾する。

 しかし政治家たちは「大衆目線が欠如している」とか、「金持ちだから社会のことが分からない」とか以前に、そもそも大衆を自分たちと同列のものであるという発想を持たない。そうした前提の上で、大衆に公平な利益や権益を与えるという発想も同様に持たない。

 彼らの発想が必ずしもマクロ的に優れているとは限らないが、現実問題そういう風に国家は動かされている。もちろん、単に私欲を満たすために国益を損なう政治家も古来より数多存在したが、それはまた別の問題。

 こうしたパターンは、なにも現代になって生まれたものではない。何なら明治時代に活躍した面々の子孫が多く活躍しているのが現代日本の政治なのである。江戸時代以前においても基本的な構図は変わらない。

 そして互いに見ている世界は全く別物であるが故に、それは交わることもなく、物理的に破綻を来すまでは自覚もないままにシーソーゲームが続いていく。あるいはその糾弾のあり方の中には、奴らは本質的に敵である、しかし物理的に排除することが叶わないと言う無意識の発露が潜んでいるのかもしれないが、それは本人たちにすら気づくべくもないことである。

 そして、政治を司る面々と利害が一致しない集団が反乱や抵抗運動を起こし、自分たちの集団の権益を物理的に奪取する行為が繰り返されてきたのが人類の歴史。これは市民革命や民主主義とか人権運動なども根っこは変わらない。往々にしてその勝利者は、自己の属する特定の階級や集団により多くの分配を与えるように無意識的に行動する。

 

分かり合えるという傲慢
 同じ人種、同じ民族ですらこうであるのだから、「人種、民族、国籍、性別、主義主張」がそれぞれ違っても「同じ人間、互いに分かり合いましょう」といったスローガンが如何に難しいことを言っているかが分かるだろう。「価値観の合わない他人のことも分かってあげられる」というのは極めて傲慢な考えだと捉えることもできる。

 別に互いに相争いあえば良いと言っているのではなく、客観的に自分たちとは分かり合えない存在や、相容れない存在がこの世には存在しており、彼らが存在するという事実を認め、その居場所が存在することを許容するという、最も根本的な意味での「認める」というプロセスが必要というだけの話である。

 そういった意味での「社会的なレーベンスラウム(生存圏)」が各個人、各集団ごとに保障されることこそが、社会の秩序と個人の権利をバランスよく守る考え方であると個人的には思う。しかしこれまた「他人の権利を侵害すること」を至上とする手合いがいるからには完璧にそれを維持することは難しい。

 ただし、上記のような意図を持って行動していれば、少なくとも個人としては不必要なトラブルを招くことは滅多になくなることは経験則からいっても確かであるといえる。


 確かに生物学的にはほぼ同じ存在なのかもしれないが、あまりに個別の意識を強く持つようになった人類。もはやそれぞれが別種の生き物と思った方が、却って適切に互いを尊重できるのかもしれない。

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