雑記:詐欺は壮大であるほど見破られにくい?~批判のための批判の無益さ~

投稿日 2021年1月22日 最終更新日 2021年1月22日

 

果たして現代日本の政治家は無能なのか
 多分昔からよくある構図なんだと思いますが、「政治家が無能だから国民のための政治をしない」というニュアンスの批判をしている人が世の中には多々います。

 しかしながら、個人的な観測からすると、ここ10年以上(まあ、もっと長期的なのではないだろうか)、自由民主党は常に「国民のための政治を行おうとはつゆほども思っていない」と常々思ってきています。

 近年になると、「国民のための政策をやったように見えて、実は中抜きの利権を身内にばらまいていることが発覚して批判される」例も多々表れていますよね。10万円の持続化給付金における受注問題などが顕著な例です。実際のところ彼らの本質はそこにあると思います。

 彼らが自分たちを一種の特権階級と位置づけ、国民を生かさず殺さず、各種業界のコネクションでつながっている身内同士で利権を独占するために政治を行っている、と仮定すればどうでしょう。彼らは極めて有能なのではないでしょうか法の網をかいくぐることにおいてはプロフェッショナルといっても良いでしょう。「国家の将来に対するビジョンがない」のは確かに間違っていませんが、そもそも同じ未来を夢見ていないという話。彼らにとっての正しさと国民の正しさは正反対かもしれない、って話。正しさなんてものは1つではありえない。

 なお、過去の歴史上現れた奸臣(私利私欲のために国家を利用しようとする政治家など)たちも同様で、多くは国家を食い尽くしたあげく衰退、滅亡に導いています。歴史は繰り返しますね。

 そういった利権政治家にも「人間としてはいい人なんだけど・・・」という例は珍しくありませんが、組織やコミュニティというものは人を支配、洗脳します。会社でも、「組織そのものの維持が最優先事項となって社会的意義や構成員の利益を度外視、暴走する」例は悲しいながら多々あります。組織という装置には残念ながら感情はありません。あるいはサイコパスのような例を思ってもよいかもしれません。

 ブラック企業やサイコパスは、笑顔で理想を語りながら養分となる構成員や部外者を取り込み、モノと同レベルに扱い、搾取します。詐欺師も表面的には善人を装うことは珍しくありません。しかし人間というものは、規模の大きい欺瞞であるほど感度が鈍ってしまうことが多いようです。

 何が言いたいかというと、無能だからできない、という批判は的を射ないどころか物事の本質から逸脱し、逆に彼らの思い通りですらありえる、ということです。同じ未来を夢見ていない人を批判しても、「だから何?」で済まされてしまいますし、そもそも私たちの声は彼らに届きません。そういう愚痴を吐くことでストレスを発散できるならそれも良いですが。とはいえ他の政党の方々には単なる無能としか言いようがない例が多いのも事実ですが

 実際のところ、歴史上で国民のための政治が行われた時代とはきわめて稀有なパターンです。だからこそ、そういう一部の例は史書にも取り上げられて礼賛されています。そういう奇跡的なケースを要求し、祈るだけというのは容易いですが、結果を得られることはそうそうないでしょう

 

 

暴露の時代「令和」と利権階級
 批判行為というものは、対案を持ってこそ初めて意味をなすものでもあります。アレはダメだ、コレもダメだ、と言っただけでは何の意味もない(やめるだけ、は事実上不可能)ことは、現代では一般的な常識だと思います。文句だけ言って自分では何もしない人を救ってくれる人や組織、国はそうそうありません。あったとしても何らかの利権が絡んでいることが多いです。その意味では、近年では極めて冷静に対案を含めた批判をしている方々も多数現れてきました。

 とはいえ、実際のところそれが何らかの影響力を持つわけではないということが悲しいところです。比較的影響力の強い著名人や専門家の場合に限っては、付随する説明が一般人にとって目新しい知識になるため重要性が高いですけどね。

 黒幕のように隠れていた「脱法不正」がどんどん明るみになって言っているのが令和という時代だなとはつくづく思います。この風潮そのものは極めて重要だと思います。マスコミの捏造事件、隣国による平和的侵略(経済的侵略)なども、正直手遅れにもほどがあるとは思いますが、明るみに出てきたことには大きな意義があります。

 かつては貴族という特権階級が世界には存在し、時に優雅に、時に貪欲にふるまっていたわけですが、現代日本を支配する彼らは貴族とはかなりイメージが異なります。

 中世の中国は貴族社会でしたが、当時の貴族階級は自らが教養人、文化人であることを誇りとし、道義に外れた行いや教養のないふるまいをすればコミュニティからの批判を受け立場を失う、そういうある種のシビアな世界でもあったわけです(王朝国家がなくなってから全く別の民族みたいになってしまったなあ)。西洋でもノブレス・オブリージュ(貴い身分であるからこその社会的責任と義務)という言葉があるように、ある程度の節度は保たれるもの、という意識が強かったものと思われます。

 もちろんそういった貴族の中にも暴虐無動の輩は存在しましたが、それでも「民とは違う存在であるからこその責任」という前提はあったわけです。しかし現代国家における政治・経済の権力保持者は道義で縛られる存在ではありません。しいて言えば法律のみが彼らを縛るといえますが、どうもその法律自体が抜け道を意図して作られているのではないかと疑うくらいには、特定階層にとって「ザル」といえる感があります。例えば2021年現在の与党のフィクサーなど、あまりに露骨に私腹を肥やしていることが叩かれるようになっていますね。

 過去記事でも軽く触れましたが、日本の法律は「真面目に働いて生きる」だけでは国家から食い物にされるシステムになっています。義務教育もそういう方向に働いています。自分でシステムを把握し、事業を起こし、種々の申請を駆使することで初めて大いなる搾取から逃れられる仕組みとなっています

 不動産などにおいても、美味しい物件は事前にコネのある人に紹介し、公募前に売買が終わってしまうことは公然の秘密となっていますよね。こうした「利権でつながったコネクションによって維持される似非貴族、経済力と権力の共有による特権階級」のことを利権階級と呼ぶことにします。

 利権階級による統治は長年にわたり強固な基盤を築いているため、一般人が声を発したりデモを行ったりしただけでは揺らぎもしません。ある種の革命(選挙でも良いですが代わりがまだいませんね)が起きれば変化を起こせるかもしれません。しかし現代の国際社会はそうした場合、他国からの介入を想定せざるを得ませんし、現状そういった手法は難しいでしょう。

 

 

堕落しないためには教養が必要?
 そういえば、中国の五胡十六国、南北朝の時代に中国の北半分を異民族たちが支配していました。彼らはもともと自然に親しみ家畜と共に生きる遊牧民族だったりしたわけで、さぞかし卑しい欲望とは縁がなかったのだろう、と思うかもしれません。

 しかしながら、中国を支配するようになった彼らは、とたんに私欲の闇に落ち、コネとカネによる腐敗政治を行うようになってしまいました。中央政治にかかわる人々が利権政治に落ち、辺境を守る軍人のままとなっている同族を虐げ、反乱を起こされて国家が滅亡するという事件もありましたし、皇帝や権力者の座を力で争う(要は殺害して奪い取る)ことも日常茶飯事。史上もっとも血生臭い時代だったといえるかもしれません。

 中国貴族と異民族統治の2例を見ると、権力者にはやっぱりある程度の教養や文化が必要なのではないかとは思ってしまいます。知識があれば良いという話ではなく、もっと感覚的なものです。現代日本の権力者もそういうものとは無縁に思えます。

 

 

資本主義であるが故の自己防衛
 じゃあどうすれば良いのか、というところですが、現代日本は表面的な自由が許された資本主義、民主主義の国であることを改めて思い起こしましょう。これらのイデオロギーについて私は批判的であるのですが、その話は今回は置いておきます。

 日本の税制を含めた統治が衆愚政治であり、何も考えなければ最大搾取をされてしまう社会であることは前に述べました。なので、自分でシステムを把握し、自分で事業や投資を起こし(小規模で良い)、金の生る木を植え、「お金に働かされる」ことからの脱却を目指すしかありません(老後まで働きぬいて平凡な一生を終えたいのなら別に止めはしませんが)。

 「そういうシステム」である以上、システムそのものを壊す力を持たないなら、「もともとそういう利用が正しいシステム」なのだから最大限利用しましょう。現代の金融資本主義では、お金に働かせる以外の手段でお金の奴隷を逸脱するすべはありません

 批判して、愚痴って、同じようにストレスを吐き出している人に共感しているだけでは何も得られません。趣味や人との交流を楽しむのは精神的に有意義な時間だと思いますが、「憤り」を吐き出す行為は誰も得しないのです。私も社会人になったばかりの数年はそういうことをしていましたが、知識を得るというベクトル以外では意味のないことだったと思います。

 その批判に使っている時間やエネルギーを、もっと有意義なことや楽しいことに使えば良い、という何ら珍しくもない結論にいたるわけですが、案外それができていない人が多いと思います。もちろん、たくさん稼いで散財するのも自由だし、細々と平穏な毎日を守るのも自由、それを幸福と思うなら悪いことじゃないと思います。でも批判することにリソースを割き続けることは本当に意味のないことです。その批判は相手に届くわけでもありませんからね。


 というわけで、1つの典型例を示しつつ、「批判のための批判の無意味さ」と「現代日本社会のトラップ」について思うことをつらつらと述べました。私自身、だいぶ以前から考えていたことでもあり、特に目新しいわけではないかもしれません。それでも「改めて考えてみれば気づくことがある」人もいるかと思います。せっかく生かされているのだから、少しくらいマシな人生を志すのも選択肢の1つではないかと思います。