雑記:「当たり前」の相違によるネット社会の難しさ~ツイッターの140文字文化を通して~

投稿日 2021年2月2日 最終更新日 2021年2月2日

 ありていにいえば、「人は言語が通じても言葉の意味を共有できていないことが多いよ。そして私はツイッターそのものでの『情報発信』を極力行わないことにしているよ」、というお話。


ネット社会の変化
 インターネット社会は近年急速に拡大、肥大化しています。例えば一昔前にあった個人×個人を主眼とするSNSmixiGREEなど)は衰え、不特定多数への遭遇を前提とするツイッターインスタグラムなどが主流となっています。

 近年のソーシャルメディアは過去記事でも触れたように、互いに個人として認知しあう以前の状態、「名無し」とかいう言葉が当てはまるような「何も知らないし興味も持つ以前の他人」との情報送受信が当たり前のようなシステムになっています。そんな中で意思疎通に失敗して喧嘩になったり、平行線の議論を延々と続けるというトラブルなんてものも多発しています。

 特にツイッターは、1つの投稿をたった140文字しか表現できないという極めてインスタントなメディアとなっており、「言葉足らず」が原因の認識の齟齬は日常茶飯事なのではないでしょうか。そのような事象がどのような仕組みで起きているか、ということを改めて提起してみます。

 

開かれすぎた世界
 もともと人間というのは、狭いコミュニティで生きてきた動物です。幼少期であれば近所や幼稚園、学校などの社会があり、学生になればバイト先の交流などもあるでしょう。そして大人になると仕事関係の付き合いがあり…。人によっては趣味の集まりが存在する場合などもあるでしょう。とはいっても、実は世界全体からすると極めて狭い社会の中で生きていることが分かります。

 それがSNSの発達により、まず似たような趣味、境遇、価値観の人同士が「友だち」としてつながることになりました。コミュニティでの交流も活発になり、好きなものが共通している同士での新たな社会が広まりました。

 そこから近年のツイッターなどの不特定多数型、コミュニティのような「区切りのある場」が存在しないメディアが主流になり、全人類が1つのコミュニティに放り出されたような形になりました。ある程度は検索からプロフィールの文言や過去のツイートを見ることで共通点のある人を探すことはできますが、「コミュニティでかかわってみて相性がよさそうだったら友達になる」というやり方は不可能になりました。さらに相互認証制の「友だち」ではない一方的な「フォロー」を投げ合う形に変化しています。リツイート、リプライ、いいねなどのシステムも、基本的にはフォロー外の人でも可能なシステムですし、社会を区切る「壁」のような概念はほとんどありません。

 鍵アカウントなどというシステムはありますが、これもフォローを承認しないと閲覧や交流がそもそもできない仕様なので、結局のところSNS的な使い方とは似ても似つかないシステムです。某国について人種のサラダボウルと表現することがありますが、現在のソーシャルメディアは全個人のサラダボウルと言っても過言ではないでしょう。何もかもを混ぜた闇鍋状態が現在のソーシャルメディアなのです。

 

共通経験・共通認識の欠如
 人間という生き物は、生まれ育ちの環境や家族関係、経済状況により、同じ民族でもまるで別の人生が待っています。例えば「上級国民」の子、医者の子、一般的なサラリーマンの子、母子家庭の子、裏社会の子はそれぞれ見てきた世界がかなり異なってきます。私が今まで交流した人の中でも、そもそもの価値観以前の「言葉の意味」、「物事の軽重」などが異次元級に異なっていて驚いた人が複数います。経験が異なると、好き嫌い以前の「当たり前」があまりに違うわけです。

 140文字で自分の意志を表そうとすると、その発言に至るまでのほとんどの前提は「当たり前だから省く」とせざるを得ません。極端な話、「夏は暑いものだから」とか、「砂糖は甘いものだから」といった理由をわざわざ説明する人はいないでしょう。

 しかし、人という生き物は自分の世界観の外にある思想を認知できない生き物のようです。例えば「AはCかどうか」という議論に関して延々と平行線だった時、実は「AはBであるかどうか」というそれ以前の前提が正反対のまま語っていた、なんてことが最終的にわかる場合なんてのが現実に起こっているわけです。

 例えば「あの道路おいしいね」とか、「海水は熱すぎて体が溶けそうになる」とか、「空の上を走るのにも飽きた」みたいな文を読んでも、普通の人は「意味が分からない」と思います。単語の意味は分かっても、自分たちの世界に存在するそれらとの整合性がとれなくて、「何が言いたいのかわからない」となるわけです。

 現実問題、ネット住民たちが巻き起こしている意思疎通の齟齬は、これと大した差のないものだというのが私の考えです。むしろ、言葉の表すものが明確であるために、かえってその意味が共通認識だと誰もが信じ込んでしまうため、余計に「意思疎通できていないことに最後まで気づかない」というややこしい状態になってしまうわけです。

 こうした齟齬が発生する可能性を減らすには、客観性を身に着けるしかありません。「真実がたった1つである」場合というのは、この世界においてほとんど存在しえないというのが私の考えです(コナンくんごめんなさい)。例えば解明されて定理となった物理法則であるとか、木に生るあの赤い果実のことを標準的な日本語で(こう書かないとすでに異なってしまうことがもう危うい)「りんご」と呼ぶとか、そういう次元のこと以外は人それぞれ違う意味を認知していると思った方が良いです。特に概念や事象を説明する言葉の意味や、物質に対する評価(高い、安いとか)は、相手が自分と同じ意味で認知しているか、よくよく注意してみる必要があります。

 何が言いたいかというと、元々生まれ育ちや趣味や現在の境遇が共通している者同士でかかわってきた人間という生き物が、そもそもの「当たり前」的思想や人生のバックボーンに関する共通点を全く共有できない世界にいきなり放り込まれた結果、「言語は通じるんだけど言葉が通じない」例がより多発するようになった、ということです。共通の経験や共通認識を持たない「未知との遭遇」なのですが、同じ生き物で言葉も通じる「日本人」であるがゆえに、各々にその自覚が全く欠如してしまうというトラップなのです。互いの抱く先入観の相違に気づかないまま、コミュニケーションの齟齬がエスカレートしてしまい、取り返しのつかないことになるわけです。

 

オンラインゲームの例
 かなりわかりづらいと思うので、「当たり前」の違いの例をMMORPGに例えてみます。かなり簡略化、価値観化されてしまいますが、本質は捉えられるのではないかと思います。

 オンラインMMORPGで最もよく見られる「当たり前」の差は、いわゆる「ガチ勢」と「ライト勢」の違いや、「課金勢」と「無課金勢」の違いだと思います。ちなみに個人的にエンジョイ勢という言葉は避けています。だって突き詰めることだってゲームをエンジョイしてるじゃないですか。むしろ楽しくないのにゲームをやってるの?(または他人に対してそういう偏見を持っているの?)と問いかけたくなる案件です。

 さて、各種の人々を極端にステレオタイプしてみます。実際にここまで先鋭化した思想の持主は多数派ではありませんが、こういう考察を行うには必要なことです。

ガチ勢:強い装備をそろえるのは当たり前。エンドコンテンツに挑戦するのは当たり前。装備基準を満たすのは礼儀。クリアは大前提で時間短縮を図る。装備は資産。
ライト勢:装備はプレイの中で手に入ったら使う、エンドコンテンツは連れて行ってもらえたら行く。遊べたらなんでもいい。クリアできたら強い弱いはなんでもいい。何ならクリアに失敗しても別にいい。装備は所詮ゲームのアイテム。

課金勢:ゲームに課金をするのは当たり前。時間節約のために課金する。コンテンツに追いつくために課金する。金策プレイなんて時間がもったいないし面倒だからやらない。強い課金アイテムはPT参加の礼儀。
無課金勢:基本無料ゲームは無料でプレイするもの。無課金を貫くために金策プレイをする。お金を払うくらいなら時間をかけてプレイする。課金アイテムがなくてもPTに参加できるのは当たり前。

 このジャンル分けの対極の人が相手を非難したり、真面目に議論しようとしたりしてこじれるのは、多くのゲームで発生する事象なのではないでしょうか。それは「当たり前の認識が異なっている」上で、「相手の認識が異なることを認知、尊重しない」からですね。

「課金アイテムを用意してこないやつはPT来るな!」
「いやいやこれは基本無料のゲームだから無料で遊ぶ権利がある!」

「あの金策ダンジョン行っても3Mしか稼げない、時給300円とか行く意味ないわ」
「あの金策ダンジョンは1日3M稼げる。金策キャラを量産してたくさんかせぐぞ」
「おいおいおい、レイドで役に立たない金策職でレイドPTに潜り込んでくるなよ」

とかね。そもそもの認識が異なってるから言語は通じても言葉は通じないわけですね。どっちが正しいとかないんですよ、こういうの前提が合う、または相手の前提も尊重できる人と遊ぶしかありません。これは価値観の話なので、本来はもっと根深いところで、人として生きることそのものについての相違があるため、デフォルメとしてとらえてもらえたらと思います。まあ、現実として、「ただの自己中心的な人」が結構な割合でいて、相互の論理を都合良く使っている場合があるのも否定できません。その場合、さらにこじれやすくなるでしょう。

 今のネット社会の事故率の高さについては、SNSコミュニティからツイッターの闇鍋への変化により、「前提が合う、または相手の前提も尊重できる人」同士での遭遇可能性が極度に低くなってしまった、という要因があるわけですね。むしろ価値観すら全く異なる相手のところに殴り込みに行く人すら結構いるらしい。現代日本はストレス社会だ。「嫌いというのは無関心より高い興味を持つ感情」でもありますけどね。

ツイッターで明確な情報発信は行わない主義
 というわけで、個人として「これは有益な情報だ」と思って140文字の連投で投下しても、全く正反対の意味合いで捉えられる危険性があるのがツイッターの世界。下手をすればいくつか投下したツイートの最後の1つだけが拡散され、何の話をしているのかすら誤解される場合すらあります。ツイッターの文化の1つである「空リプ」もそれに拍車をかけています。他人のツイートに対してリプライではなく、自分のタイムラインへの投稿で反応するわけです。ここでもし非難や暴言を吐いたとしたら、全然関係ない人が自分宛てかと思ってこじれる、なんてリスクまである。

 特に私の場合、過去の記事を見ればわかると思いますが、思考のプロセスがものすごく多いです。これでも結構省いてるんじゃないかと思います。特に長考してるわけでもないのですが、アウトプットしようとすると前提がどんどん沸いてきてたまにうんざりするくらいです。そんな私が140文字で行う投稿には膨大な前提が付与されていることが間違いありません。なので私は、ブログの内容にしたりするような「情報(狭義の)」の発信は、ツイッターそのもので行わないようにしています誤って解釈された情報は誤った情報にしかならないし、その情報がどういう人をターゲットにしているかも重要である場合が多いからです。なので私の個人ツイッターは「チラシの裏」「お気持ち」の領域からあまり逸脱しないようにしています。


 というわけで、ネット社会における「言葉の通じなさ」の仕組みについてアレコレ語りました。何か語りつくせてはいないと思いますが、これ以上の前提まで説明しようとするとキリがないのでこの辺りにしておきます。

 結局のところ、個人で行える対策は「人は価値観以前の『当たり前』を十人十色で持っている」ということを理解して、認知する。コミュニケーションの際には相手の言葉の意味合いを推察する努力をする。そして各々の「当たり前」を容認できる相手と上手く調和し合い、明らかに無理な相手とは距離を置く。これに尽きます。

 かつてはコミュニティという「場」の区切りで人の選別を行うことができましたが、現在は個人が自分の意識の中で線引きしていかなければならない、ということですね。ある意味ではこれ以上自由な形態もないでしょう。自由には責任が伴うので、最大の自由は面倒なもんなのですよね。個人的には、選択肢が他に存在しないのはちょっと自由じゃないな~とか思いますけど。