随筆:“好き”を仕事にするとは~副業や独立、ビジネス至上主義のトラップ

 思考の垂れ流しによる随筆のような何か。ちなみに前置きしておきますが、副業や独立、資産形成などを否定する意図は無く、むしろ自分に適合する仕事でそれを行えることは最高の人生への導きとなると思っています。

 しかし、他人の発言を鵜呑みにして自分の本来目的を見失うと、本末転倒の結果をもたらすトラップが存在するということも知っておく必要がある、という論調です。


感性の需要と供給
 売れるものや需要のあるものと、やりたいことや作りたいものは往々にして異なる。そしてその誤差が大きければ大きいほど、作り手は金のための活動に辟易するようになり、好きだったはずのものに虚無感や嫌悪感を抱きつつ世間に迎合するか、あるいは「お金を稼ぐためだけに行うこと」を仕事にするという妥協を選ぶことになっていく。

 こと芸術においては、作品の経済的価値は受け手の質の高さに依存してしまうことが最大の矛盾といえる。例えば天才的才能やスキルを有する作り手による、本人にとっての最高傑作は凡人には理解すらされない可能性が高くなるというのがありがちなジレンマだろう。

 そういった「ハイレベルすぎて受け手の質を要求する作品」がどう扱われるかというと、それまでに作り手が世間から受けた評価に大きく依存することになる。すでに業界または世間において著名となっている人物によるものであれば“天才的かつ難解な作品”となるし、そうでなければ“ただの駄作”として見向きもされなくなる。

 ときたま、「業界で評価が高いミュージシャン」といった概念が出てくるのも、それに近いと言えば近いか。“違いの分かる人”にとっては明らかに優れているが、一般大衆にとってはイマイチ良さが分からない。そういう作品はやはり存在していると思う。

 

大衆社会と商業芸術
 例えば音楽に関しては、一般大衆が求めるのは「聞き心地が良い」「キャッチーでわかり易い」「周囲と共感しあえる」などの平易な感性に答えるものが多いといえる。“最も売れる作品”とは得てしてそうなりがちである。「とりあえずシンセを鳴らして感動的な音調にすればそれっぽくなる」みたいなところもあるのだと、過去の売れ筋作品を見ていれば何となく感じられるだろう。

 また、“売れ筋を追求した作品”以外に関しても、往々にしてその延長線上に当てはまる。個人があるミュージシャンの音楽を好きかどうかというのは、煎じ詰めれば「偶然趣味が合うかどうか」に尽きてしまう。作り手の“好き”と受け手の“好き”が噛み合うかどうかは、もはや偶然の産物でしかない。

 そんな中、偶然にも商業として成り立つ人数の“感性が合う人々”に見つけてもらえた人が、個性に特化したプロとして活動する権利を得られるようになる。逆に言えば、潜在的に存在していても「見つけてもらうことができな」ければ、それは成立しない。

 

ネット社会による作品の埋没
 近年では、アプリやWebサイトなどの普及によって「誰もが芸術に手を出せる環境」が整備されてきたといえる。誰でもお手軽に作品を投稿できる社会。しかしそれは、到底作品とも言えないような「手遊び」が溢れかえることになり、却って本格的に努力してきた人が埋もれてしまうリスクを強める結果にもなったと言える。

 これが近世以前であれば、社会的地位または資産を持つ理解者がいればパトロンとして養ってくれる道もあったわけだが、金融資本主義が骨髄まで染みついた現代では、金にならなければ活動として成立しない、というのがほぼほぼ常識となっている。いくら熱烈なファンがいようとも、作り手たちの生活が保障されたうえで活動資金も充足していなければ、活動そのものが成立しないためである。

 あるいは平時を一般の会社員として過ごしつつ、その余暇を活動に充てて「活動することそのものが趣味」という位置づけにする人も存在するにはするが、環境の質は大きく異なってくる。そもそも今回の本題である「“好き”を仕事にする」とは異なる概念になってしまうし。

 

商業主義と音楽のインスタント化
 一方、社会的コネクションを持つ業界の力を持ってプロモーション活動を幅広く行うことで、著名でもなければ突出したものを持つわけでもない作り手(あるいはただの演者である場合も)が、いきなり大々的な露出を果たしたうえで大きな売り上げを上げる、というビジネスモデルも定着している。

 この場合は先ほど述べた中でも“売れる音楽”に特化しておき、「悪くない」「よく見かける」「タイアップ先が好き」などの極めてライトな感性を元に確実な売り上げを上げていくスタンスである。

 このようないわば「インスタント・ミュージック」は次々と似たようなものが再生産され、新鮮なうちに大量消費され、そして忘れ去られていく。時には過去の売れ筋ランキングなどという形で再度「思い出してもらう」というプロセスが行われるが、このようなテレビ番組すら、いわばローコスト・ミドルリターンの商業施策と捉えることができる。

 いろいろと便利になった世の中ではあるが、純粋な質の高さを持つ芸術が「稼げる大衆芸術」によって淘汰されやすい状況は、より一層加速したのかもしれない。

 

“好き”と“既存のビジネス”は必ずしも相容れない
 ビジネスで成功したインフルエンサーたちは「マネタイズや集客、フロントエンドやバックエンドをしっかりすれば好きなことを仕事にできる」という。それ自体は間違ったことを言っているわけではないが、人によっては「そういう問題じゃないんだ」というのもまた現実であったりする。

 それらの前提そのものが、本来好きであったはずのものを「嫌いなもの」や「やりたくないこと」と組み合わせる、または挿げ替えることによって、“好き”を貶めることにつながるからである。

 例えば、このブログをアフィリエイト案件のためのブログにしたらある程度は稼げるだろう。しかしそれはもう、ブログという体裁だけ引き継いだ完全な別物である。確かに私は文章を書くこと自体は好きだが、扱う内容が全く興味のないものを押し売りするためのツールにすぎなくなるからだ。

 興味のあるもの、使って良かったものを売れば良いと安直に言うが、そもそもそんなに都合良く「好きなもの」の案件なんて存在するものではない。いくつかASP(アフィリエイト仲介的なWebサイト)を見たことはあるが、個人的に好きで他人に薦めたい商品なんて、ジャンルの時点で一致するものは無かったというのが現実なのであった。というより、大抵の案件はそもそも実用品、または実用的と思わせる商品であるのだから当然といえば当然。

 ちなみにAmazonや楽天のアフィは利益率が低いので、副業レベルで稼ぐのは余程の人気サイトでないと厳しい。そしてそのためには潜在読者の多いジャンルを選ぶことは必須になる(単価の低い案件なら数を稼ぐ以外にない)。例えばオンラインゲーム・アラド戦記の記事など、全プレイヤーを顧客化したところで1万人もいないわけで、始まる前から稼ぎの発生する余地のない媒体である、というのは極端な例。

 つまり結局は内容のジャンルを興味のないものに合わせる必要が出てくるのである。「好きなもの」×「好きな行為」の組み合わせがビジネスになると言っても、最低限ビジネスに適合性のある媒体が好きでなければお話にもならないのである。

 ここで迫られる選択は、無意識に「好きではないもの」「やりたくないこと」を無理やり好き&やりたいと錯覚させるか、あるいは「少しでもかみ合っていれば御の字」と妥協して突き進むか、あるいは「そこまでして商売がやりたいわけではない」と断念するかであろう。

 

本来の目的を振り返る
 とあるセミナーで言われていた言葉であるが、「マネタイズや広告宣伝がしっかり行われていないコンテンツはビジネスではなくエンタメである」という。

 そういう意味では、私にとって“好きな物”はエンタメであり、“嫌いな物”はビジネスであるといえるだろう。果たして、ビジネスが嫌いな人種に対して彼らは「好きなことを仕事にできる」と言えるのであろうか。

 副業で稼げる、さらに投資で資産形成できるといった風潮そのものは悪くないどころか素晴らしいことだとは思う。そして極めて恵まれた時代になっているのも確かであろう。しかし、そうした風潮に乗せられて“やりたくないこと”で業務時間外に追加で働いて、単に労働量を増やしていることに気づいていない人も一定数いるのではないかという恐ろしさもある

 もちろんその努力の延長線上で完全に独立できれば御の字だが、その結果、労働ストレスの緩和と時間単価を上げられるかどうかが肝であると言える。個人的には、時間単価が上がらないなら大して好きでもない副業で食べていく意味はあまり無いと思っている。

 とはいっても、これは私がテレワーク生活で「苦痛ではないレベルの仕事」を送っているからであり、現状が出勤必須かつ無駄な時間を会社のために消費させられているなら是非脱出を考えてみてはどうかと思うが。

 なお後述するが、収益が確約された「依頼」に対応する形での好きな仕事(私の場合執筆や校正)なら、その内容が自分の「好きなこと」である必要はないと考えている。その辺りがブログのようなセルフメディアとの違いだろう

※例外として、形ばかりでも良いから個人事業主として登録し、節税を行うというのは誰でもやった方が良いレベルのいわば「デバフ解除」である。現代日本の税制はそもそも何もしなければ「本来しなくても良い損失」を出すシステムになっている。ある種の愚民政策の延長線上だが、わざわざ損をさせられることは全力で回避したほうが良いのは話の本筋とは別の問題である。

 

前向きに後退するという選択肢
 だから私は、フリーのライターや校正者として稼げればそれはそれで御の字だと思ってはいるものの(文章を書いたり直したりする行為は私の“好き”であるため)、クラウド案件にありがちな、ほぼボランティアの価格で「信頼を買う」ような案件に手を出そうとは思わない。というかその手の案件の多くは昨今ツイッターで取り上げられたりしているクリエイターへの労働搾取と何ら変わりがない。そうした労働を積み重ねて何らかのメリットが発生する確率は天文学的に低い。

 別に、好きなことで稼ぐのは無理というつもりではない。むしろ私も少しでもそれに近い状態であろうとし続けるものではあるのだが、「“好き”で稼ぐ」「副業で資産形成」という概念に囚われすぎた結果、偽物を掴んでしまって自分を騙し続けることになっては目も当てられないということ。目先の収益を求めて、やりたくもない(しかも大して利益が出るわけでもない)ことに時間と労力を費やすのは本末転倒である。

 そういう意味では私がずっと生業にしてきた編集とか校正とかいう仕事は、お金と好きなこと(絶対に嫌ではないこと)のバランスがほどよく釣り合っているのかもしれない。最低限の生活と、少しくらいの浪費ならできる稼ぎに、一応は文章や出版物を相手にする仕事なのだから。

 ここから変化を起こすとすれば、好きだから効率が落ちても納得できる仕事を増やすか(Webライターなど)、または内容に大差がなくても時間単価を底上げできる業務を引っ張ってくるかのの二択しかないと考えている。単に今より多く働くことで賃金をかさ増ししようとはつゆほども思わない、というところが副業全振りの人たちと異なる価値観と言えるかもしれない。時間は資源なのである。人生のコスパを貶める行為はやりたくない

 例えば、日々の生活をグレードアップするためだけに、毎日の自由時間を2時間減らすことになったらそれは個人的には論外だと考えている。その時間をこそ有意義に使いたいのであるから。お金は自由の選択肢を生み出すツールであるというのは確かだが、そのお金を得るためにより多くの自由を手放すのでは本末転倒なのである。この場合可能性としてあり得るのは、その2時間そのものが自分にとって有意義なものである、という場合のみだ。

 

念のための捕捉
 ただし、お金にならなければ好きなことでもやらないのかというと、そうではない。このブログだって、特に情報や考察をまとめるタイプの記事などは敢えて執筆する必要のないいわばボランティア的な記事だが、それに対して収益を得ているわけではない(ちなみに微々たるアドセンス収入はほぼブログの維持費に充てられている)。

 また、収入が保証された「お仕事としてのライター」であれば、さほど興味があるモノ事でなくても自然と受け入れられるであろう。そういう意味では、“好きを仕事にする”とは、たとえお金にならなくてもついついやってしまうレベルのことで、自然とお金を稼げてしまう状況を生み出すことであると言える

 私の場合、毎度毎度募集を探しに行って自分を売り込む行為自体が嫌いでしょうがないので、「自然と仕事が入ってくる環境」がマストになるという制約はあるのだが。

 結局のところ、あくまで「好きなことorやりたいこと」「嫌いなことorやりたくないこと」「お金のために行うこと」というそれぞれの理由付けに関して、他人や社会の空気に流され、「自分で自分を騙す」ことになるのが一番もったいないというだけのことである。何事も結局は自分が決めるのであるから。

 

風の時代?
 西洋占星術においては、2020年末のグレートコンジャンクションより“風の時代”が始まったとされている。概ね以下のような価値観の変動を主体とする概念である。

●目に見える資産や物質、その量を追求する時代から
 目に見えないものやデータなどに価値を感じる時代に。
⇒他者との比較やマウントを必要としない。

●安定した組織への所属が求められる時代から、
 個人で自由に働くことが活発な時代に。
⇒終身雇用制の崩壊やYoutuberの台頭なども当てはまる。
⇒縦のつながりから横のつながりへ

 百年単位の大きなパラダイムシフトであるため、始まったばかりの現在ではまだ発展途上である。他にも、不正や隠し事が明るみになっていく風潮などもあるようだが、まさに令和の時代を象徴しているといえなくもない。

 前述のような、単なるネットビジネスや既存の商業形態を一般人が行いやすくなることを「風の時代」の特徴だというなら、正直のところ、とてもパラダイムシフトとは言えない規模である。今後の世界は、こうした状況に対してどのような変革をもたらすのであろうか。人々ができることは、ただただ“自分らしく生きる”という一点に尽きるが。


 以上、思考の行きつくところをそのまま流していったので、全体としてのまとまりに欠けるところはありませんがまとめてみました。

 とりあえず何が言いたいかというと、既存の価値観に縛られるのももちろん愚かな事であるが、新しい価値観をそのまま鵜呑みにして無理やり自分に当てはめるのも危険だということです。

 こういった言論にはある種の真理が含まれているのは確かなので、上手く使えればものすごく強みになります。しかし、自分が本来どうしたいのかを忘れて他人の原理原則に振り回されてしまうと、自分で自分を騙すことになってしまいがちです。

 そこで必要なのは、自分の目的がどこにあるのかという潜在意識の深掘りと、自分が行う選択に対する明確な理由付けの2点であるといえるでしょう。

 

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