ブレダン実録:金融資本主義&利権主義の限界

投稿日 2022年5月2日 最終更新日 2022年5月2日

 今回は、以前から個人的に現代最大の問題であると捉えている、金融資本主義や利権の存在、そしてその問題から脱却するための理想論などを垂れ流してみました。

 なお、現在の経済システムをすぐに人の力でどうこうできるわけではないので、目先の現実的な対策としてはリスクの低い投資(元本保証では断じてない)を用いて相対的資産を目減りさせない取り組みを行うのがベターなのは間違いのない事です。今回の議題はあくまで思考実験の1つだと捉えてください。

※ブレダン実録に関しての注意点:通常の記事とは違い「誰かに発信すること」「何かを主張することを目的とした文章ではありません。あくまで自然発生的な思考の一例として見てください。また、ターゲットを持たない思考そのままの文章であるため「文章の内容の本質が伝わる可能性」も担保していません。分かりにくくても当然でありかつ、分からないものに触れてみるのも一興とした企画です。

ブレインダンピングについては下記の記事で述べています。

雑記:ブレインダンピング~思考を言語化することの重要性~


長い歴史を持つ金融資本主義
 金融資本主義は、「無が有を生み出す」仕組みを持つため、虚業であればあるほど利益が出るシステムとして発展を続けてきた。そして元をたどれば、“銀行家たちの経済”というところからスタートし、過去数百年にわたって意図的に構築されてきたシステムなのである。

 例えば日本の明治維新の際に、海外の商社は旧式の兵器を完全にボッタクリの金額で日本の藩に売り渡そうとし、その資金を藩が持ち合わせないことに対して、銀行から手形を貸し与える事で対応させた。このとき、銀行側はそんな大金を持っていなかったのに「貸したことにした」。存在しない通貨を貸したことにして、利子を得たわけである。

 

 

実業を圧迫する虚業
 こうした銀行の貸し出しシステムもそうだし、金融取引におけるレバレッジもそうだが、「存在しないモノ」を取引させることは確かに便利ではあるものの、社会における実業の立ち位置を大幅に低下させてしまったことは否めない。

 デリバティブなどはもはや「青田刈り(誤用として有名であるが、意図的にこの表現にしている)」と言って差し支えない所業である。建前はどうあれ、自分たちだけカネを無限に増やしていきたい特定階層の人々の意図が露骨に出ている。

 このような金融資本主義特有のシステムたちを悪意の産物というのは無理があるのは百も承知だが、結局のところ一部の層の人々が、濡れ手に粟で他人の収益を奪い取ることで生計を立てることを目的としていることは客観的な事実である。

 この手のゼロサムゲームで上げられる利益が全体に占める割合が増えれば増えるほど、生産活動に対する負荷がかかってくるのは自明の理。現代において、あらゆる国家が経済的勝者とはとても言えない状態が現出しているのも、この辺りの金融ゲームに乗せられてしまったがゆえの悲劇であるといえる。

 

 

格差の本質は知識とフィールド
 日本で少子高齢化による「負担の大きさ」が問題になっているが、第一次~三次産業の枠を超えたある種の第四次産業、つまり金融業やトレーダーなどの非生産者たちがその他の産業を本質的に圧迫していることのほうが重大な問題であると捉えることもできる。

 もちろん、金融業が事業創出に対して一定の役割を担っていることそのものは否定しないが、そうした本業以外の側面に問題がある。例えば銀行や保険会社が売り出す金融商品のほとんどが、ほぼ意図的に購入者に損害を負わせる「合法詐欺」であることは既に多少なりとも知識のある人々には知れ渡っている。100人のうち1人でも騙せれば利益が出るから、彼らにとっては評判が知れ渡っても、養分が存在する限り問題ではないのである。

 彼らは他人に何らかの利益を与えているわけではない。他人が損益を出した分だけ稼いでいく存在である。金融商品で勝てる可能性もあるではないか、と思う人もいるかもしれないが、そもそも膨大な手数料の存在によって「もし勝ててもどうせ赤字」というひどい状態なのである。

 こうした「やる前から勝敗の定まっているゼロサムゲーム」で利益を出す人が増えれば増えるほど、価値創出の元手となる人的資源は目減りする一方なのである。彼らを誰かが「食べさせてあげている」現実がそこにある。

 銀行員や保険会社の社員が高年収なのはなぜか。どうしてそんなに儲かるのかというカラクリがそこにある。もちろんトレードや金融商品で損失を出す人々が自己責任であるのは疑いもない事であるが。

 

 

勝者なき経済の勝者は獅子身中の虫
 令和の経済には勝者と呼べる国家が存在していない。こと国家間においてはゼロサムゲームにすらなっていない。これはすなわち「国家のリソースを食い荒らしている」階層の存在が浮き彫りになってきているともいえる。

 もちろん、旧来の覇者である米国の経済(株価)そのものは相変わらず上昇を続けている。しかし国家全体の枠組みとしてはとても健全な状態とはいえない。ウォールストリートの一方的な大勝利であるともいえる。

 日本でも格差社会の拡大や、30年にわたる経済停滞は取りざたされてきている。その要因にはさまざまなものがあるが、こと経済格差に関して「所得の再分配がなされていない」→「税収の累進性が足りていない」→「富裕層(と称しつつ実際は中堅上位層にすぎないが)から搾り取ろう」というムーブメントが起きているのは完全なミスリードである。
※経済停滞に関しては日銀が完全に足を引っ張っていた件などもあるが、今回の話から逸脱するので割愛する。

 そもそも日本にはもはや真の富裕層などほとんど存在していない。たとえば全国的な某経済団体のトップですら、たんなるエリートサラリーマンのボスとしての社長にすぎない。資産家とすらいえないのである。

 そして上記のムーブメントで搾り取られるのは富裕層未満の階層である。日本から中産階級が消滅しつつあるとは再三言われつつある問題であるが、中堅上位層に対する所得の累進性を高めるのはまたこのような「みんな仲良く沈む」思考を加速するだけである。

 ということは、中産階級が貧民層に陥ったことで利益を得た人々がいるということである。その利益はどこに行ったのであろうか。システム的な問題をいくつか取り上げてみる。

1.使途不明の財政支出が多すぎる。
 汚職とまで言うのは失礼にあたるのかもしれないが、明らかにグレーゾーンと認識して特定の利権を共有する人々で回している金額が多すぎる。しかも特別会計などの手段を使って、どのように使われているのかを明らかにしていないのだから意図的と思われても仕方がない。民間企業とは一線を画した組織たちの存在意義が問われている。

2.中抜きシステム
 入札や下請けなどによる案件の仲介委託は本来、利害を共有するものどうしがより良いマッチングを行うためのツールである。これが単なる癒着の道具として使われがちな現状、社会に何1つ貢献していない「存在価値のない」人々が、関連する実業における対価のほとんどを奪い取っているということである。

 事業とは当然のことながら、コストに見合う成果が期待されるべきものである。しかし中抜きによってコストの多くが何のメリットももたらさずに消失した事業は、当初のコストに対して明らかに質の悪いものにならざるを得ない。事業者に対して支払われた報酬は本来のごく一部に過ぎないからである。これでは経済発展や国力増強など望むべくもない。プラスサムゲーム以前の問題である。

3.機会を与えない社会構造 
 日本の税制が「節税対策を知っている人だけ損をせずに済む」システムであることもようやく知れ渡ってきた。国民全員に節税の機会があるシステムにしつつも、その存在を知る機会を得ることが難しい階層構造を上手く維持してきた戦後日本。ただし近年はインターネットの普及などにより、下位層でもそれ以外の層が持つ知識を手に入れる機会が生じたため知識の伝播が発生し、変化が始まっている。

 また日本の教育システムが、建前を信じ込ませることに終始して実際の社会では単なる「都合の良い労働者」を育て上げるためのツールとして機能してきたことも事実である。ついでに「愛国心」を奪って自国を犯罪国家のように貶める教育も並行し、生まれ育った国そのものを卑下するのが当然という社会風潮も生み出してきた。

 その結果、あまりに無害すぎて却って煽り立ててあげなければならないほどの反戦自己卑下国家が出来上がった。このような米国主導における戦後政策は、占領政策という作品の中でも稀有の傑作と言える。空前絶後の大成功例と言って差し支えない。もちろん「それを意図した人々にとって」である。

 話を戻すと、ようやく日本の学校教育でも金融教育が開始されることになった。社会保障システムの維持そのものに無理が生じてしまったがゆえの妥協案であろう。つみたてnisaなどもそうだが、「ただ働いて年金をもらうだけでは老後の生活はもう保障できない、少し手助けするから自分で資産運用しなさい」という通達に等しい政策が近年では推し進められている。人によってはこれを「国家としての義務の放棄」とまで言う。何もしないよりは明らかにマシであるが、これほど手遅れになってしまったのが日本という国家であるというのは確かな事実である。

 

 

仮想通貨の意義と失敗
 では。新たな経済ツールとして近年発展を果たした仮想通貨はどうであろうか。私は仮装通貨に関しては一定の意義は感じつつも、2つの点から失敗の産物であったと見なしている。ブロックチェーンを利用したゲームなど、試みとしてはかなり意義のあるものだったとは思うが…。

1.金融資本主義への互換
 まず第一の失敗は、実質的に金融市場の商品の1つと化してしまったことである。外国為替取引という一種の「胴元が存在するギャンブル」に参入してしまったため、従来の資本主義における富裕層、資産家たちによる取引ゲームのおもちゃに堕ちてしまった。

 個人的に仮想通貨に感じられた最大の可能性が、従来の金融資本主義経済に支配されない新たなフィールドの形成という概念であったため、これに関しては致命的と捉えている。

2.暗号資産という巨大なリスク
 インターネット上に存在する限り、あらゆるデータは盗難や消失に対するリスクを、現物資産より多く抱えてしまうことは否定できない。

 もちろん現物資産も、社会そのものが混乱をきたした場合や戦時状態である場合には物理的圧力により失われる危険性が生じる。しかし暗号資産は平時においても、そして可能な限りのセキュリティ強化を行っていても奪われるリスクが存在することは、取引所からの強奪事件が幾度も起きていることから明らかである。

 セキュリティを国家レベルで強化すればその危険性は限りなく低下するのかもしれないが、それでは何のための新たな経済ツールなのかが分からなくなってくる。結局のところ、1から10まで賭博的なおもちゃに過ぎない結果になった。

 

イカサマ賭博経済からの脱却
 こうした虚業>実業の風潮を打破するには、何らかの物資に対する本位制経済を復興させるのが理想といえる。金本位制に戻すのはもちろん不可能である。ゴールドの総量を大きく上回る経済規模を人類は生み出してしまった。

 現代経済は「無が有を生み出す」システムのために存在そのものがバブルに等しいと言えるほどの拡大を果たしてしまった。もはや既存の経済システムにおいて本位制を導入するのはほぼ不可能である。

 以上の事から、私が個人的に「相対的にマシ」と思える経済システムは「金融資本主義との互換性を持たない」「比較的小さなコミュニティに帰属する」「何らかの物資本位制を持つ貨幣のような何か」である。

1.金融資本主義との互換性
 要するに、ドル⇔円のような為替取引システムから除外されるということ。為替対象とできる通貨は円のみ、しかもその取引は現実世界の特定のコミュニティ(後述)でしか行えない。または特定コミュニティに所属する人のみインターネットで取引可能とする。

 これにより、旧来の資産家たちによる相場ゲームのおもちゃとなることで利便性や存在意義を失うリスクを大幅に軽減できる。

2.コミュニティ内のみの流通
 何らかの「コミュニティ生活圏」を形成し、その範囲内において流通する、ある種のアンダーグラウンド通貨とする。このコミュニティとは都市でも構わないが、インターネット上のコミュニティを発展させたものであるとか、特定企業の構成員を中心とする生活コミュニティ圏のほうが適切かもしれない。

 もしも某リベシティが将来的に本当の都市のような存在になったら、これに近いイメージになるのではないかな、と空想したりもするが、とりあえず形式は何でも良いので既存の国家の枠組みにとらわれないことが肝要である。

 これと類似する概念は過去にも幾度となく行われてきたが、いずれも一時的な国家的政策、または単なる詐欺事件のようなものであったため、とても継続的な物とは言えない。それを恒常的システムとして形成することに意義がある。

 該当コミュニティ内においては、基本的な衣食住、またある程度の娯楽を享受できる体制が整っていることが肝要である。それによって、ある種の排外的な要素は持たざるを得ないものの、約束された収奪から逃れた真の「健康で文化的な生活」が保障されるのがメリットである。

3.何らかの物資本位制
 これに関してはなかなか難しいものがあるのは確かである。もはや金銭を担保できるほどの物質がこの地球には存在していない。循環可能な消費物であることが理想かもしれない。ともあれこの項目に関しては上記項目に輪をかけて理想論である。ただし、2.の小さなコミュニティに限定することによって経済規模を抑えれば、何らかの代替物は見いだせるのかもしれないが。

 こうして思うと、日本の江戸幕府による「米本位制」と呼ぶこともできる石高制による経済システムは極めて興味深いモノであったと言える。あくまで前近代の「衣食住を担保する」こと自体が最優先課題であった時代であるからこその産物ではあるが。

 とはいえ、金融資本主義からの脱却を果たすことさえでき、適正な貨幣政策を遂行することができれば、物資への兌換可能性に頼ることのないシステムは出来上がるかもしれない。なのでこの項目は必須ではない。

 

 余談であるが、この概念を考えているとき、北方謙三さんの『楊令伝』における国家・梁山泊の在り方が限りなくこれに近いことに気が付いた。梁山泊は国家という体裁をとってしまったため、あらゆる隣国から侵略や裏切りを受けることになってしまい、国家を解体するしかなくなってしまった。理想郷とは目立ってしまうと迫害されるものなのである。


 以上、これからの未来に対して基本的に望むことは、既存の金融資本主義という「ビジターとして養分にされるだけの状態」と決別したシステムを生み出すことで、数百年にわたる世界経済という軛から脱出し、真の自立と自由を勝ち取るという側面にあるといえる。

という理想論を語ってみる話でした。

 

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