今回は、自分と他人を比較するクセのデメリットについて考えてみます。
今回の結論 【他者との比較で自我を保つ人たち】 ●自分は“他人より”正しい、優れている、優位である思考 ●「正しさ」と「他人との比較」への執着による自己欺瞞。 ●他者との比較を養分にしている時点で他人軸思考。 【自分軸思考に近づく方法】 ●二元論で判断しない。 ●他人との比較なしに満足する。 ●自分軸を強めると相性の悪い人は自然と消える。 ●「見下す」のではなく「見下ろす」思考。 ※他人軸が良い、と思うならそうするのも自由。
合わない人の共通点
私が過去数年の間に「この人とは合わない」として視界から外したり距離を置いたりことになった人物の特徴について整理したところ、その一部に興味深い共通点が見つかりました。
とにかく他人の価値観や意見を否定しかしない人
●おそらく同意見を持っているであろう人や、
本人の話を肯定してくれた人の同意に対してすらケチをつける。
●どんな些細な言い回しでも、他人を否定する材料を探し続ける。
●「少なくとも相手よりは偉い」と思っている。
●他人に対する偏見が強く、思い込みで相手の思想や行動を決めつけ続ける。
●とにかく上から目線で高圧的。
⇒他人の痛いところを突いているつもりだろうがブーメランも多い。
⇒もし仮に本当に優秀でも、関わるデメリットの方が大きい。
⇒少なくとも他者を教導するメンターには最も向いていない。
その人間性だけが「君には教えてもらいたくない」理由になる。
自分の考えが「答えだ」と触れ回り続ける人
●万人に共通の答えが存在し得ない問題でも。
●何らかの根拠に基づいたらしい数字を出しても、
その根拠のもとになるソースが主観なのに「これが最適解」と断言。
●上から目線で他人を見ている。
⇒客観に見せかけた主観が全てになっているので議論は無駄。
⇒確かに正しさが含まれる意見だとしても、
「常に正しい」物事はそう多くないことを理解できていない。
しつこく論破したがる人
●相手にとってさほど重要でない些末な話でも
論理になっていない部分を細かく言い募る。
●結果として相手を見下す発言を漏らす。
●自分なりの答えを発信はするが
ソースや思考プロセスははっきり表に出さない。
⇒相手にし続けると無駄な時間や労力を消費するが、
その代償となるメリットを与えてこない。
明らかに自責なのに他責で愚痴り続ける人
●全く同じ環境で他の人は問題が起きていない。
●当人がうまくいかない理由を環境のせいにする。
●とにかく連日文句を発信し続ける。
⇒確かに環境要因もゼロではないが、
毎回失敗するのは客観的に見て明らかに当人の力不足。
他責ということにして自己防衛を行っている。
番外:高圧的にクレームを言い募る客
●わざわざ居丈高になる
⇒目的とは無関係に。
他にも似たような人はいたかもしれませんが、パッと思いついた程度で。他ジャンルの問題を持っていた人ももちろんいますが、全体の母数が少なく、上記の例だけで全体の半数以上になるであろうことが強いインパクトを持ちます。
彼らの共通点とは
まず、彼らが上記のような行動をとった理由、そうすることによって得られるメリットがどのような物であったかを考えてみます。
とにかく他人の価値観や意見を否定しかしない人
●自分は“他人より”優れていると思える。
●自分は“他人より”正しいと思える。
●自分は“他人より”優位であると思える。
●優れた自分が劣った他人を導けると思っている節も。
⇒マウントを取りたいのが前面に出すぎて、
もし本来の目的が他にあっても他人にとっては害に感じられる。
自分の考えが「答えだ」と触れ回り続ける人
●自分は“他人より”優れていると思える。
●自分は“他人より”正しいと思える。
●優れた自分が劣った他人を導けると思っている節も。
⇒異なる意見を全て否定するために「正しさ」をアピールし続ける。
「だから何度も言ってるけど(空リプ)」
⇒マウントをとりたいという面もあるだろうが、
他人から尊敬&ちやほやされたいという思いが第一か。
しつこく論破したがる人
●自分は“他人より”正しいと思える。
⇒相手が「間違っている」と思うことを突き詰めるので。
⇒アレコレ論じること自体は決して悪くないが、
結果として本質が見えてしまったので(余計な見下し発言)、
合わないと感じた理由はそちらの1点のみでした。
明らかに自責なのに他責で愚痴り続ける人
●自分は“他人より”正しいと思える。
⇒自分は悪くない、悪いのは他人という、
某RPGの親善大使による「悪いのはヴァン師匠」に近い思考。
番外:高圧的にクレームを言い募る客
●自分は“他人より”正しいと思える。
⇒文句を言える種を利用してマウントをとる。
つまり全体的にいえることは、「自分が“他人より”正しい」という比較による自己正当化をはかることと、他人に対して優位に立ちたい、つまりマウントをとりたいという本能の2つが共通点といえるのではないでしょうか。あと、複数の場合において自分がやっているのと同じことを他人にされたら過剰な反応を見せるという傾向性も散見されました。
こうした思考の根源には、「正しさ」と「他人との比較」に対する執着があると考えられます。さらに、正しさという概念そのものも、「間違っているもの」との比較と捉えることができるので、すべては他人と比較しての相対的自己承認を欲する心理が色濃く出ていると考えることができます。
つまり、元をただせば自我の保全という安心に対する執着があり、それを他人をダシにすることでしか保てない心理状況であるということですね。
他人軸という無間地獄
このように、他人に対して圧をかける行為は当然のことながら他人には嫌われやすいです。「嫌われる勇気」はもちろん大切ですが、それはあくまで「自分と本質的に相性の悪い人がこの世に存在するのは仕方のない事」という割り切りのこと。不必要に他者から反感を買うことを推奨するものでは決してありません。
さらに、そうした他人との比較優位を求める深層心理は必ずと言って良いほど承認欲求の裏返しです。そのため、嫌われる勇気の根底にある「自分の本質」からは最も遠い行動といえるのです。
他者との比較や、他者から得られる承認欲求で自己を満たす行為は常に養分を必要とします。そのため維持するだけでも労力を費やし続け、他人から無用な反感を買うことも多く、しかも常に養分を補給しないと不満足感を抱えるという一種の無間地獄的思考に陥っていると言えます。
本人にとっては自分の価値観以外を否定し続けることで自分軸を保っているつもりなのかもしれませんが、他者との比較を餌にしている時点で他人軸であるということに気づかないとこの無限ループからは逃れられません。
自分軸とは二元思考からの離脱
では自分軸を保つにはどうすれば良いか。それは上記の人たちの逆をやれば良いのです。正しい正しくないという二元論で物事を考えない。他人との比較がなければ満足できないという発想から離脱する。この2つを行うだけでかなり視野は変わってきます。何でも善と悪で二元化する思考もこれに含まれます。
別に「比較する」ことそのものが悪いと言っているわけではありません。同じ土俵に立った人間同士が切磋琢磨するために競い合ったり、客観的考察の材料として数値や物事を比較したりすることは全く別次元の問題です。
では他人軸による比較は何が違うのかというと、「思考」で優位に立った「つもりになる」という自己欺瞞からきているところです。自分の在り方を誤魔化しているにすぎないということに気づいていないがために、自分の本質をそのまま肯定できない=自分を「上げる」ことができないので他人を「落とす」ことで自分の位置を錯覚させていると捉えればわかりやすいでしょうか。
他人を否定したり、他人に対して高圧的になったりすることは、他人と感情のゼロサムゲームを演じているにすぎないというわけです。つまり、他者からエネルギーを奪うことで生き延びている状態ですね。奪っているだけなので、養分が尽きてしまうと新しい対象を見つけない限りは不満を増大させていきます。。
このような悪い意味での焼畑農法を繰り返していくしかないから無間地獄と表現したわけです。ちなみに焼畑農法自体は節度を保って行えば決して悪いものではないですけどね。ともあれ、こうした心理的ゼロサムゲームを行っている限りは、表面上はともかく自己の潜在意識は不安定なままになってしまうでしょう。
執着を手放すことで見えるもの
上記の二元論から脱却し、自己が自己であることそのものを受容することで、そのような争いをどうでもよいと思えるようになります。すると、そうしたエネルギーを奪うタイプの人間が近寄ってこなくなったり、自ら離れていったりしてくれます。
私も2~3年前からはぼぼそういう人を見かけなくなりましたし、数少ない腐れ縁や遭遇もその後あっけなく遠ざけることができました。なので対人関係そのものが問題になるということは全くなくなりましたね。あり得ないと思うかもしれませんが、実際に起こる事なので体験してみてくださいとしか言えないです。
ちなみに、私もかつては正しさを追求していました。社会人になりたてのころは常に政治を批判し、正しさを求めて議論することを好んでいた時代もあることは確かです。でもだからこそ、このような人々を見て深く内省する材料にできたり、批判や否定というエネルギーは自分にとってプラスを生み出すものではなかったと体感をもって語ることもできるのです。
視点をより高める
これは私が勝手に考えた表現ですが、「俯瞰(客観)思考とは見下ろす(みおろす)こと、マウント(高圧的)思考とは見下す(みくだす)こと」だと思っています。そして、見下ろす人は見下す人よりはるかに高い視座から物事を見ているんですよね。
他人を見下す人なんて、俯瞰で見下ろしている人からしたら眼中に入ってこないのです。だから争う必要もありません。わざわざ関わりに行く必要もありません。
見下す人が絶対的に「間違っている」とは言いませんが(人は自由なので)、それと関わらない自由、自分軸で生きる自由もあるわけです。どちらを選ぶかは自分次第、私は後者を選んだだけということですね。前者で生きている人は、現在の状態で最も快適な方法を選んでいるというにすぎないという見方もできますから。
他人軸の価値観からは自分が先に抜け出さない限り逃れられません。他人は変えられないからです。一生奪い合うことを繰り返したいならそれも自由ですが、異なる考え方もあるということを知るのも1つの知見だと思うので、記事としてまとめてみました。
まとめ 【他者との比較で自我を保つ人たち】 ●「自分は“他人より”正しい、優れている、優位である」思考。 ⇒マウントを取るorちやほやされることによる承認欲求。 ●「正しさ」と「他人との比較」への執着による自己欺瞞。 ⇒他人と比較しての相対的自己承認。 ⇒「他人を下げる」ことにより自分を上げる心理的ゼロサムゲーム。 ●他者との比較を養分にしている時点で他人軸思考。 ⇒常に養分を補給し続けないと不満足。 ⇒他者からエネルギーを奪うことで生き延びる発想。 【自分軸思考に近づく方法】 ●二元論で判断しない。 ⇒正しいor正しくない、善or悪。 ⇒人の数だけ価値観はある。全て「間違いではない」。 ●他人との比較なしに満足する。 ⇒やりたいことをやるも良し。 ⇒関わりたい人と関わるも良し。 ⇒「他人が〇〇だから」は気にしない。 ●自分軸を強めると相性の悪い人は自然と消える。 ⇒元からいた人とは距離を置ける。 ⇒新しい人も近寄らないorもし来てもすぐ離れる。 ●「見下す」のではなく「見下ろす」思考。 ⇒あらゆる価値観の存在も客観的には認められる。 ⇒「私には合わないけどそういう人もいるよね」。 ※他人軸が良い、と思うならそうするのも自由。
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今回の記事に最も直結している内容だと思います。他者との比較を必要としない非地位財は最もコスパの良い満足感を得られます。
自己の本音を深掘りすることで、表面的な思考で自分をだましていたことに気づけるかもしれません。
自己目的に合った「価値」を手に入れていくことも大切な自分軸。
エネルギーもお金もゼロサムゲームのみで社会が成立すると、いずれは全体が廃れてしまいます。ゼロサムそのものを完全に否定するわけではありませんが、「それだけでは社会は保てない」のです。
自己にとっての善は他者にとっての悪である可能性がある。だからこそ二元論を絶対視することは無用な争いを生むリスクを最大限まで高めるのです。
善悪以前の問題として、「言葉の意味が共通でない」ことも。
「無能」と呼ばれる人は、利害が共通する相手にとってのみ極めて有能であることも。そういう場合は外部から批判されても痛くも痒くもないし、むしろ文句だけ言えば満足してくれるならありがたいと思っている可能性も。