雑記:善悪で物事をとらえる危険性

 以前の記事でも触れましたが、日本社会における教育にはさりげなく意図的な誘導が働いているように見える、というお話からスタートして、客観性の大切さみたいな流れになっていきます。


「教えない」という選択肢
 日本の学校教育が社会で役に立たない、というのは以前から言われていると思います。それというのも、特に公民科において理論や概念を教えるばかりで実際に社会に出てから必要、有用であることがなおざりにされているからです。

 各種税金の控除であるとか、社会保障を受けられる条件やそれを享受する方法など、特にお金の関わる物事に関して非常に顕著に表れていると思います。

 これに関しては日本という国が、まっとうに義務教育を受け、まじめに就職活動を行い、勤勉な労働者として働くだけでは大いに損をするシステムあることと関係しているのではないか、という話も前にしました。サラリーマンが特に何もしなくても税金をフルで自動徴収されてしまうシステムなんかが顕著ですね。自分が受けられる恩恵を自分で知り、自分で申請しなければ、本来払わなくてよい金額を払わされてしまうというトラップも、知らせず、知らなければ自己責任という考えのもとに不法ではなくなってしまうわけです。これ以外にも「普通に言われたとおりに働くだけ」だと損をしてしまう要素はたくさんあります。

 なので、現代日本においては、本人または親などによって、生きていくうえで必要なことを学んでいくことが(よりよく生きるには)必須というわけです。

 

科目不要論について
 ちなみに、古典とか数学とかの生活にかかわりの薄い科目に対する不要論に関して、私は賛同しません。一般教養というのは生きていく中で無意識的に活用されている部分もあるし、学生の段階で「すぐ役に立つ知識」しか教えない教育では、多彩な人材を生み出す可能性の芽を摘んでしまうというデメリットもあるからです。

 「詐欺に騙されないための予備知識」としての一般教養もあると無いとでは大違いになるということも最近わかってきました。例えば化学物質の効果をうたって販売される機械が、実は小学・中学理科の知識だけでも効果のない偽物だとわかるなんてこともあったりします。無駄な知識という概念があることは否定しませんが、何の役にも立たない知識なんてものはそうそう無いということです。

 

西洋史観によるイデオロギー
 また、歴史教育に関しても大幅な思想誘導があると思われます。まず有名なのが第二次世界大戦にかかわる自虐史観ですね。日本は戦争で悪事を働いた、ということを強調していくことで、自国を貶めていくやり方。これに関してはある程度の正しさもあるので否定はしませんが、一部捏造の可能性がある出来事なども取りざたされており、慎重に扱うべきです。そして何よりそれより、連合諸国が善の立場であったわけではないということも前提として押さえておく必要があります。これに関しては後で述べる項目にも関わります。

 戦争を行うことが善であるなんてことはほぼありえません。必ず何らかの利害関係が極めて大きな理由となっています。特に現代に関しては、戦争が起きることで利益を享受できる人々の存在も忘れてはなりません。敵対している2国の両方に武器を売るなどという話もあります。歴史に関しては必ず、善悪でとらえようとせず、客観的に物事を見ていくことが大切です。勝てば官軍、という言葉には紛れもない事実が含まれています。

 

啓蒙思想、人権思想の罠

 上記の本は、啓蒙思想、人権思想の罠として最も顕著な例として挙げさせていただきました。中世から近世への過程において、西洋人は人権思想や啓蒙思想を発展させていきました。しかしその裏側では、新たに発見されたアメリカ大陸周辺の地域において、文字通り人を人と思わない裏切りと虐殺行為を続けていたという事実があります。「人権」ということばには「人類全体」を意味しない適用範囲があったということです。ここまでひどい例は多くはありませんが、他の地域においても人種差別はありふれた現実として存在していましたし、現代ですら、実際に人種差別を受けた方の体験談が後を絶たないのも事実です。

 何が言いたいかというと、日本の教科書では西洋側の目線に立った記述が多いため、西洋的な思想が誇大に理想的な解釈をされているのではないか、ということです。現実としては、市民革命にしろ人権運動にしろ、自民族または自階級の権利承認が行動原理であり、その他については鑑みられない場合が多いという点を忘れてはなりません。それが悪いことと言いたいのではなく、善行であると鵜呑みにするには問題がある、と少しブレーキを踏んだ考えが必要だということです。現代においても、活動家による運動には何らかの利権が絡んでいたりしますからね。

 もちろん、非特権階級の権利の拡充など、それ自体は意義のあることだと私も考えています。とはいえ、自民族、自国家を卑下してわざわざ衰退の道を選ぶような選択肢を選ぶ必要は全くないというわけです。人間にとって博愛主義、平和主義は1つの理想ではありますが、それを目指さない他人の行動に対処する手段は持っておかねばなりません。でなければ、インディアスの住民たちのように無抵抗に搾取されるだけで終わってしまいかねません。

 

報道とインターネット
 現代のマスコミがリベラル的な勢力の影響を受けていることは、インターネット上で続々と話題になっています。日本に関しては偏向報道や捏造なども話題になったりしていますね。繊細な問題なので直接的には触れませんが、すべての情報において自己教育に基づいた選別、判断が必要な時代になってきています。ネットの情報も当然のごとく玉石混交ですからね。

 自由主義というと平等や公平を目指す思想のように錯覚してしまいそうですが、これも特定の人々が権益を手にするための思想である、ということを抑えておく必要があります。大本となる古来の自由主義も一般労働者を省いた中産階級(商工業者など)の利権のためという側面がありましたし、それ以降も分類が多すぎるので一概に捉えることはできませんが、この世に絶対的な正義は存在しないという客観視で物事をとらえていくことは非常に重要です。

 

個人と社会は切り分ける
 これらの議論は、西洋人や活動家、報道人が悪人であるといっているわけではありません。個人としては「良い人」である場合も多いでしょう。それに関しては政治についての記事でも述べました。

 そもそもが「善悪」で切り分けてはならない、というのが大事な主旨の1つです。悪人ではない人たちも、生まれ育った環境や社会、組織によって他者に危害を加える集団となってしまう、というのが人間の怖さでもあります。だから、自己防衛が必要なのです。

 たとえば、投資を行う際に銀行や証券会社の窓口には近寄るなという話をよく聞きます。企業として利益を出すために、手数料を多くとれる複雑怪奇な投資商品を売ろうとしてくるから、といった理由です。これは、銀行員や証券マンが悪人で、利用者をだますために商品を勧めるからではありません。彼らは会社から与えられた仕事をこなしているだけです。

 人権運動などにも共通する話ですが、人間という生き物がくら建前で動いたとしても、そこに自己や属する集団の利益を特化して追い求めるのは仕方のない本能です。そしてその結果、当てはまらない人間が損をするというのもよくある現実です。だからこそ、それを見越したうえでうまくやっていくしかないのが人の世ということです。正義と悪、善と悪を主眼として物事をとらえることの危険性がわかったのではないでしょうか。


 学校で習ったこと、社会的に正しいとされていることを鵜呑みにせず、世の中の情報を取捨選択し、善悪、正誤ではなくもっと客観的に現実をとらえていかないと、特定の人たちの養分として搾取されてしまう社会であるというのが大まかな主張です。特に経済に関しては、お金を動かして利益を得ている人々は自分の利益のための意図的に情報を流したり、流さなかったりすることにためらいはありません。

 もちろん、余計なことを考えずに質素な生活を送って満足というならそれも選択肢だとは思いますが、政治家や企業が無能だと愚痴を垂れ流してストレスをごまかす生活を送るよりは、多少エネルギーを割くことで少しはマシな生活を目指すのも良いのではないかと思う、といった感じです。