雑記:「天使と悪魔」から述べる予定調和

投稿日 2021年3月25日 最終更新日 2022年2月2日

私の個人的な共感度ナンバーワンの歌詞はこの曲。

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正義と悪という刷り込みの怖さ
 過去の雑記でも何度も触れましたが、正しいか間違っているかとか、善か悪かという概念は、人種、階層、国籍、宗教、資産などの様々な違いによって異なるわけで、絶対が存在することはありえないというのが私の個人的なベースの考え(数理の基本的な定理やモノの名称など、条件を満たせば必ず当てはまるものはある種の限定的絶対性を持っていますが、そういう話をするとまたキリがなくなってしまうので割愛)。この歌のもっとも大きな主題はそういうところにあると思います。

 

否定という行為の非生産性
 なので、他者の価値観そのものに対する否定というのは、どんなにそれが理性的なものであろうと「あんまり意味がない」と考えています。以前の記事でも取り上げたように、人間という生き物は個体によって、良いもの、悪いものの認知自体が正反対であることも多々あるからです。

 

予定調和とモナド
 そういうところから発展すると、もう1つの思考が生まれます。「何かを変えるってことは自分自身を変えるということと ほとんど同じ」というのは、「人は他人を『変える』ことはできない」ということとほぼ同義です。これを哲学的な意味での予定調和という、と私は見なしています。言葉の元になったライプニッツのモナド論自体は多分に神学的原理を含んでいるため、その概念そのものを鵜呑みにすることはできませんが、私の経験則としてこれを1つの真理だと思っています。ただし、私は哲学の徒ではないので、あくまで現実の人間に対する観察眼の1つとしてこの原理を肯定しているにすぎないということは付記しておきます。

 

 人というのは、いくら他人からのアクションを受けても、本人がその気にならなければ変わることは絶対にないという現実には、直面した人も多いのではないかと思います。あるいは自分がそうだったという人もいるでしょう。つまり、「他人のおかげで変わることができた人」というのは、「元々変わる準備ができていた」ところに他人の行動が表面的なトリガーとなって、「自分で変わった」と見なすことができるという論理です。物事の良し悪しの基準が人によって違うのだから、そうなることは不思議ではありません。

 

 だから、自分は他人を変えることはできないし、他人を変える(変わったように認知する)には、自分自身、または自分を置く環境を変えるしかない、というわけです。こうした他者との距離感の持ち方は、アドラー心理学と共通するところがあると思います。

 

 これは、他人への介在自体を最初から諦めるということを意味しているわけではありません。その人に対して新たな選択肢を提示してみることは意義のあることですし、変わる準備ができている人はその新たな発見をもとに「変わる」ことができるからです。逆に、もし相手が提案を受けたうえで「自分はそれを選ばない」という選択肢を示した場合は無理押しをしない、という割り切りです。この無理押しというのがどの程度の力なのか~などと考え出すと本当に哲学的議論になってしまうので、何となくの体感で認知するのがベターですし、それぞれの人によるさじ加減もまた個性なんだろうと思います。

 

 「三つ子の魂百まで」なんてことわざもあります。他人が自分の思い通りにならないということをストレスにして生きていくよりは、「そういうもの」という割り切りで自分を動かしていき、何かを共有できる相手を選び取っていく生き方が一番自然なのではないかと思います。


存在自体が矛盾の生物
 と、ここまで書いて来ましたが、最終的に思考は「否定を否定するという僕の最大の矛盾は 僕の言葉 全てデタラメってことになんのかな?」という冒頭の歌の最後の歌詞と同じものに行きついてしまうんですよね。初めてこの歌詞を見たとき、時々思うことと全く同じ思考なのでびっくりしました。人間という生き物は二律背反を同時に抱えた、存在自体が矛盾の生き物といえます。どんなに客観的な視点を持っても、他者や世界との接点が生まれたとき、答えが絶対に出ない方程式が発生します。自分たちが矛盾した生き物だという事実を受け入れた上で、自分なりの割り切りをもって生きていくしかないんだと思います。