【雑記】論争の不要性と“正しさ”という不条理

投稿日 2023年7月30日 最終更新日 2023年7月30日

 このカテゴリは通常の記事とは違い「誰かに発信すること」「何かを主張することを目的とした文章ではありません。あくまで自然発生的な思考の一例として見てください。また、ターゲットを持たない思考そのままの文章であるため「文章の内容の本質が伝わる可能性」も担保していません。分かりにくくても当然でありかつ、分からないものに触れてみるのも一興とした企画です。

ブレインダンピングについては下記の記事で述べています。

雑記:ブレインダンピング~思考を言語化することの重要性~


はじめに
 私は近年ツイッターを使う機会が大幅に減り、特に最近はフォロワーを少ない状態にリセットしてライトに使う程度になりましたが、それでも時々「知らない誰か同士が論争をしている」ツイートまたはリプライのリツイートが流れてくることがあります。それに関して自然と湧いてきた思考を垂れ流したツイートをまとめ直してみることにしました。


勝敗のない“議論”
 ツイッターで言い争いしてるRTが時々流れてくるが、どちらかに軍配が上がるような内容であることは滅多にない。

 互いに自分が言いたいことしか言っていないから、どちらも揚げ足取りと言われても仕方ないし、そうなると先に突っかかった方の失敗ってことになる。

 そもそも共有認識が成り立っていない状態での議論になるため、お互いに何を言っているかが理解できていない。生まれ育った環境だけでなく、職業、経済状況、家庭環境その他もろもろで「身分の違い」に匹敵する世界観の違いがあるため、「正しい」という概念の基準すら全く共通してないのである。

 もはやその状態で、自分が正しくて相手が間違っているということを認めさせようという行い自体が、ただの自尊心を満たす、あるいは自己が傷つくことを回避するための儀式に過ぎないのである。そこに感情以外の目的は存在しない。こうした論争には本質的に勝敗が存在しない。参加してしまった時点で負けなのだ。勝ってもメリットがない。

 

 

無理に“理解”をしない
 「それでも話が通じるまで最善を尽くすべき」という考えも間違ってはいない。しかし、あまりにお互いの前提が違いすぎると平行線やねじれの位置のような位置関係になるため、相互理解の可能性はゼロ。

 そしてその人が位置するレイヤーによってはそもそも「わかってもらうことに実はメリットがない」場合もあるし、向いてる方向が違うと目的も異なるから「理解」は本来必須ではない。

 となると私がいつも述べていることに回帰するけれど「なんかそういう人もいるんだな」という現実そのものを受け入れて、理解や同調や放棄することが結局最もバランスの良い判断になることが多い。

 「あなたの文化では豚を食べてはならないしきたりなのか、しょうがないね。私は食べるけどあなたが食べられないことは否定しないよ」という感じで、無理に共感や理解をしたつもりにならず、ただその在り方を否定しないという認知

 

棲み分け論
 現代は特に個人主義が発達し、1人ずつ自分オリジナルの世界観を持つような社会。だから共有認識なんて緩くしか成立しないし、ましてや全体主義的な一体感なんてものはそうそう生まれない。

 その点、私が相変わらず生存圏(レーベンスラウム)による住み分け論者であることには変わり無い。

 この言葉は元の使われ方がよろしくないが、少し意味合いを変えて文字通りに使うことでしっくりくるので使用している。「ゾーニングして共有点ありきで住み分けて、相容れないものは存在のみ許容して干渉をし合わないに越したことはない」という意味合いで私は考えている。

 「あなたこの価値観は分かるが、あの価値観は容認できない」ということが多々あるのが現代社会。そこで後者を無理やり論破したり、それを原因として関係を絶ったりするよりは、共有点のみを扱う形で接点を持つことに越したことはない。もちろんその非共有点がどうしても許容しがたいものである場合は別だが。

 

自分のフィールドを得る
 これまでの話を踏まえると、「言いたいこと、やりたいことは自分のフィールドでやれ、他人のフィールドに口を出すな」といった感じになる。

 これはどこかの記事でも述べたと思うが、現代では同調より自主を選ぶ場合、自分のフィールドを持つことが何より大事だと思う。自分に合うフィールドを探し見つける方法でも構わない。

 エコーチェンバーのような共有点で成り立つコミュニティでも良いし、「意見が違うことも容認しあう」ことを前提とした対話コミュニティなどでも良い。あるいはブログやyoutubeのように発信に特化するのも手。

 この話で思い出すのが、官公庁や企業の基幹システムの中に他国企業のもつサービス(クラウドなども含む)が入り込んでる現実。最悪の場合機密がだだ漏れになるのだから本当は大変なことだとよく思う。国内企業のそれを育成することを怠ったツケというか何というか。集団の存立を外部に依拠した、つくづく平和を必須とする国家だと実感する。

 

“正解”が存在すると思わない
 個人的には国家のあり方として小さな政府の方(夜警国家に毛の生えた感じ)に賛同する側だけれど、仮に大きな政府を擁護するにしても現代のそれはことごとくナンセンスな選択を繰り返しているとしか思えないし、そもそも権限を持っている立場の人間が目指すものが一般人の思うそれと乖離どころか正反対だったりするわけだから猶の事語るに落ちる状態。

 つまり立場によって「正しさだと思っていること」が全く相容れないので、こうした対立関係にある者同士が論争をすること自体が焼け石に水といえる。

 例えば私の発言や記事であっても「正しさを主張」しているわけではないし、むしろ正しさというか適切さを評価するという事象は、学問的通説化or何らかの意思決定の必要が存在することを前提としなければ単なる言葉遊びに終わるものだと考えている

 

真実は好悪と利害
 そこをはき違えた「まじめに言葉遊び対戦」が溢れるのが近年のインターネットであるといえる。

 例えば「たけのこの里の方が多数派だけどきのこの山の方が好き」という人がいるとして、この人の主張は別に誰かに認めてもらわなければならないものではないし、自分でその内容に納得していれば誰から否定されることもない「はずである」。本質的には個人の嗜好の問題だからである。

 また、政策などの論争において関連する団体の利害が「得な方は賛成、損な方は反対」するのも別に相手への悪意があってのことではなく、ある意味では最も自然なものといえる。

 このような、好き嫌いや感性、利害の違いの延長線上でしかないところで人々は争っているに過ぎない

 ただし、これが殊更「戦争の語られ方」といった社会的プロパガンダに通じるほどの影響力をもつ個人たちによるものである場合は、その言論そのものが言葉による戦争になるわけだけど、99.9%のものはそうでは無いというだけの話。

 であるがゆえに、価値観や利害や感性を共有しない相手に対して「あなたは間違っている」と主張し、論破することは何の意義ももたないし、逆にそれぞれに「違いがあること、それが相容れないこと」そのものを認めて棲み分けるに越したことがないのである。

※なお、敢えてゾーニングされた界隈に突入して炎上させ、金銭を得ようとする人たちの活動に関しては別の問題。倫理や環境、人権などの問題は本当に繊細だが、だからこそ異なる思惑で利用されがち。


 というわけで現状の私にとってツイッターとは「検索エンジンの上位が謎のマネタイズサイトたちに埋め尽くされた結果、妥協で情報検索に使うことになったツール」「ただのチラシの裏を流すツール」という2つの用途になった感があります。

 ネットが発達した結果、却って価値観を共有できる人同士が遭遇しにくくなり、対立するもの同士が遭遇事故を起こしやすくなっているのは皮肉というか何というか。