今回は、人物名の流行りについて、紀元前1世紀を中心に多くの時代で人気の例をもとに考えてみます。前回記事は下記より。
紀元前1世紀の名づけブーム?
今回の名前が同じ人物たちは下記の通りです。漢代の人物は比較的事績が残りやすいので説明が長めになりましたが、別に読まなくても問題ありません。
韓延寿(宣帝期の人物) 潁川や東郡の太守、左馮翊を歴任して善政を行った。 御史大夫の蕭望之に公金流用を取り調べられ、 彼は逆に蕭望之を同様の容疑で弾劾し返すが、 両者の取り調べを命じた宣帝により、蕭望之は無罪。 韓延寿は僭上(身分に合わない衣服や馬車の使用)や 公私混同の行いが発覚。弾劾され処刑された。 ※左馮翊:首都圏の行政長官。 御史大夫:副首相的な立場。司法を司る。 甘延寿(元帝期の人物) 遼東太守ののち西域都護となり国境守備に努める。 匈奴の郅支単于(異民族の長)の討伐許可を得ようとするが、 副校尉(副官)である陳湯の独走を止められず、 許可なしでの討伐を敢行。単于の首を取った。 その後独断を攻められるも許され、恩賞を得る。 ※ちなみに陳湯は、めちゃくちゃ素行悪いしルール破るし やりたい放題だけど戦は強いって感じの名将です。 張延寿(宣帝時代の人物) 有能な酷吏として有名な張湯の孫で、張安世の子。 郎中(皇帝側近)などを務め、父が大司馬大将軍就任を 固辞したのに無理やり任命された際に光禄勲に就任。 心配性の父により地方に赴任させられるが、 父が高齢になると中央に戻り、父の死で爵位を継ぐ。 その後は父同様に、高位や富裕であることを忌避し、 領地削減を何度も嘆願して認められる。 ※この時代、権力闘争で一族皆殺しの発生率が高すぎるので、 子孫が嫡子断絶まで続いた彼らの行いは賢かったのかも。 ※光禄勲;宮廷警護を司る官職で、九卿の1つ。 ⇒九卿は「三公」に次ぐ高位。実際には9人丁度ではない。 毛延寿(元帝時代の人物?実在不明) 宮廷画家。当時の皇帝は肖像画によって寵愛の相手を 選んでいたが、賄賂を贈ってきた相手をより美しく描いた。 しかし王昭君は賄賂を贈らなかったので醜く描かれ、 異民族の匈奴に嫁ぐことに。しかし皇帝(元帝)がその後 本人に会うと、絶世の美女であったため後悔するも手遅れ。 王昭君は匈奴に嫁ぎ、絵師の毛延寿は処刑されたとか。 ※後世に記された書物に記載されているだけのため、 史実でない部分が大いに含まれているであろう逸話。
というわけで、今回は「延寿」ネームです。前漢時代の後期である紀元前1世紀の歴史上の人物(1人実在が危ういですが)だけで上記の4人が登場し、他の時代にもちょくちょくみられるタイプの名づけです。
今回の名づけは非常にわかりやすいと思います。「延寿」とは「寿命が延びる」といったニュアンスなので、子供に長生きしてほしいという親の考えが色濃く感じられます。
今回は比較的同じ名前が集中した年代を取り上げましたが、他の時代でもちらほら出現する名づけなので、中国人、あるいは人類一般の願いの1つと言えるかとは思います。
なお、似たような願いによる名づけとして、少し前の時代に登場した霍去病の「去病」などのように「病を去らせる」といったネーミングも存在します(霍去病はとんでもなく若死にしたわけですが…)。類似の名前としては秦の始皇帝のもとで右丞相を務めた馮去疾などの「去疾」も(疾にも「やまい」の意味あり)。
彼らが生まれた時代
今回取り上げた人物たちは概ね、紀元前2世紀の終盤から紀元前1世紀の前半までに生まれた可能性が高いと思われます。漢の皇帝の在位にあてはめると、武帝の治世の末期から昭帝、廃帝の昌邑王をへて宣帝が即位するまでの間くらいになるでしょう。
漢の武帝は匈奴の討伐などの大規模な事業を行ったことや、数々の有能な政治家と将軍を取り立てたことから、太陽王ともいうべき名君の側面が目立ちます。
しかし、毎年のように行われた匈奴との戦争などのために、それまでの帝たちが腐るほど蓄えた財貨をふんだんに使いすぎた結果、治世の後期になると財政難に陥ります。
もちろん手をこまねいていたわけではなく、有能な政治家たちによって塩や鉄の専売や流通政策、貨幣の統一といった財政再建策が建てられ、それらは一定の成果を上げました。
しかしこれらの政策は往々にして、民や商人たちに負担をかけていく側面があったことも事実。この時活躍した官僚や政治家は「酷吏」と呼ばれたりしています。その結果、没落した豪族や商人が貧農と結びついて盗賊となり、治安が乱れていきます(貧農たちはもともと豪族に搾取、酷使されていたという土台もありますが)。
そして乱れた治安を取り締まる際に強権的な方法を取り、また事態を収拾する側の官僚や政治家たちも結果を出せなければ処罰される(命が残ればだいぶマシ)というある種の恐怖政治に陥っていきました。
そんな中、まじない(呪術)のたぐいである「巫蠱」の疑いの密告による、皇族すら巻き込んだ大規模な疑獄事件が発生します。「巫蠱の乱」です。これによって大物政治家たちや皇太子などが死亡。後日、皇太子の無罪が発覚して取り締まった側も殺害されましたが、取り返しは尽きませんでした。
信頼できる人間の多くを失い、失意のうちに世を去った武帝のあと、後を任された人物たちによる血みどろの権力闘争を経て政治の実権を握った霍光(霍去病の異母弟)が主導し、強権的な政治をゆるめて国力を回復していった時代が昭帝や宣帝前期の政治。そして霍光が死去して霍氏が没落した後は、宣帝本人によって同様の路線で政治がおこなわれていった。そんな時代でした。
※霍光本人は非常に慎ましやかで好き放題しない人物でしたが、その一族は私欲にまみれた人々だったので霍光の死後に処分されています。どこまで本当かは知りませんが。
時代との関連性を考える
※ここからの文章は前回と比べるとかなり想像による度合いが高いです。ソースがある話ではありませんので、あくまで話のタネ程度に。
このように、武帝期の強権政治やその後の権力闘争によって社会不安が蔓延し、そこから回復を図っていこうという時期に生まれたこと、何か1歩間違えれば真面目に勤めていても理不尽に処刑されるリスクがある時代であったことなどから「長く生きてほしい」という名づけが行われたと考えたりもできるかもしれません。
また、そうした社会不安に乗じてはびこった「神秘主義」も1つの要素であった可能性はあります。武帝本人が不老不死を目指して色々と怪しげな儀式を行ったりしましたし、大迷惑を引き起こした「巫蠱」だってそうした流行の一環であったといえます。なので雑に「流行に乗った形で不老長寿を願った」可能性もないとは言い切れないって感じですね。まあ、こうした願いが出る事自体がある種の社会思想の乱れなのかもしれませんが。
なお、宣帝本人は優秀な皇帝であったものの、彼がまいた種である宦官の専横などもあり、それ以降の漢王朝は衰退の一途をたどっていくことになります。
※この記事を書く前は、武帝期前半に生まれたならちょうど国家が一番豊かな時代だし、明日死ぬかもわからない時代ではないからこそ、武帝による不老不死を含めた長寿の願いが現実味のある発想になったのかな、とか思っていましたが、意外といろいろ根深い可能性。秦の始皇帝のそれを含めて。
※なお、五胡十六国以降の異民族皇帝が怪しげな不老不死の薬で多数死んでいった現象はまた別枠だとは思います。
ともあれ、中国人の名づけにはもともと「名」と「字(あざな)」に関連性を持たせる文化もあったりして、名前を付けるという行為に古くから意図が見られた民族であったとも言えます。現代の日本人も行う、「名前に願いを込める」行為を2500年以上前から行っていたという感じですね。
昔の日本人が「通字」「一字拝領」といった「名前を引き継ぐ行為」によって、名前にある種の政治的意図を持たせていたのとは対照的かもしれません。
※例えば江戸幕府の徳川将軍の名前の多くに「家」がついたりするのが「通字」。戦国時代に長尾景虎(のちの上杉謙信)が上杉憲政から名前をもらって「政虎」、その後足利義輝から名前をもらって「輝虎」と名乗ったりしたような要素が「一字拝領」です。
あとは何だろう、上記のような「実力主義だけど失敗したり足元をすくわれたりしたら即死する」時代において、霍光や張安世のように「少なくとも表面は慎ましやかに生きる」っていうのが最強の処世術だった時代もあったんだな、なんてことも改めて思ったり(処刑された人物が多すぎる)。