【雑記】ワールドオブザマネーの頂点と頽落は既に始まっているのか

投稿日 2022年11月12日 最終更新日 2022年11月12日

 雑記というか、思考の垂れ流しの方に近い記事。何度も同じことを説明するくらいなら一度まとめてしまおうと、先週ツイッターで整理した思考をもう少し詳述したものです。

 ターゲットを指定していない記事なので、思考に飛躍があって読みづらいところや、意味が理解できないところはあるかもしれません。

 従来の私の思想もあれば、近年感じたこともあり、将来あり得るかもしれない未来への考えも混じっている、ある種の思考実験のようなものです。

 なお、客観思考の上で金融システムを利用する人々自体を否定しているように見えるかもしれませんが、決してそういうことではなく、社会のバランスが致命的に傾いていること、システムの構築や、ある意味では意図的にそれを作り上げた人々の方に問題があるという前提の話です。


お金至上主義社会の極まり
 近年、「お金」という概念が独り歩きしてさながら万能の価値であるかのような人間の振る舞いがより一層目立ってきました。

 「お金があれば何でもできる」と言わんかのように金稼ぎに勤しみ、「投資」と自称する投機的活動の矛先は投資用商品の枠を超え、本来は別の用途であるはずの商品が投機師の商材にされ、本来の用途で必要な人に行きわたらずに価格だけ高騰していく(もはや取引するのは投機師ばかり)という現象すら散見されます。

 いわゆる「転売」の問題もありますが、それに限らず「確保しておけば価格が上がる」と見込んでの動きが広まっている認識。某国民的ゲームソフトを題材にしたトレーディングカードなどもひどい状態だとか。

 要は「カードに興味がないのに金儲けのために大金で買い集め、より大金で売ろうとする」って感じですね。投機師たちによる札束の暴力が文化のアイデンティティを破壊し、金を得るために金を使うような状況が横行しています。

 また、これは昔からその傾向はありましたが、あらゆる自称「正義的活動」が裏を返せば金のためであることが多く、こちらも文化や産業の破壊に余念がありません。

 ゾーニングを逸脱して外に押し売りに出ようとする層と、ゾーニングの中に突入して荒稼ぎor文化を批判して無くそうとする層が、どちらも結局は金のためっていうのが最も端的な現代の象徴という感じがします(あまり特定のアレコレは言いたくない)。

 

追随する人々
 一方、このような「一見お金のメタが最高峰に達した」状態を見てか、投資ブームもじわじわと強まってきています。確かに知識のない人に資産形成を勧め、基本的な知識を与えるインフルエンサーの行為は親切で合理的なので良い事だと思います。

 しかし別の側面から見ると「お金が無ければはじまらない。まずお金を得るために血道を上げろ」という流れの一環であることには変わりありません。その話も分かるのですが、そのために犠牲にするものに本当に納得しているのかどうかを振り返る必要はありそう。

 これは副業ブームに関してもそうですが、薄給で働いたうえでさらに薄利の副業を何年も続けるなんてことをしていても、何のために生きてるのかを見失うリスクの存在を否定できません(もちろん人によりますが)。実質1日中仕事しかしないような生活になり得ますから。

 

お金万能主義は“お金の非メタ化”でもある
 オンラインゲームの環境も近年ではずいぶんと変わっています。例えばオンラインゲーム「アラド戦記」の場合、当初は「課金アイテムをゲームマネーで売る」という行為をしてまで重課金を行う層はそう多くはありませんでした(人によっては規約違反のRMTにも走るわけですが)。

 ところが、近年は何はともあれ運営がガチャを売る、それが強さの秘訣みたいに「システムとして課金させる」流れが加速しています。こうなってくると課金する人の方が多数派であるかのような圧力がかかり、結果として「流れで課金させられる」養分になるリスクが非常に高い。

 個人的には「前者の環境ではお金がメタで、後者の環境ではお金は非メタである」と考えています。当たり前になってしまった時点でそれはメタというよりは前提条件に陥ってしまいます。

 なお、「時間をかけた方が有利」という場合も、時間が余るのは大抵は資産所得を持つ人間であるという点で同様なので、結局はメタに乗っかろうとする時点で云々。

 っていうところで、今流行りの資産形成ブームや札束暴力遊びに全力で乗っかるよりは、価値というものを改めて見直していく時代に差し掛かっているだろうという感じ。もちろんお金も大切なんですが、そのためにすべてを犠牲にするような時代ではないかなと。

 

価値基準の変化の兆し
 「お金が全て」という傾向の強まりについては最初に述べましたが、逆に「金があっても買えない」現象が増えてきている点も気になります。大国ですらロケット砲の材料が資源不足でカネを出しても手に入らないとか、一般人が自動車を買うと納車まで1年以上かかったりするとか。

 世界情勢による影響を含めた食糧難はそろそろ深刻化する気配を見せ始めていますし、全体的に「生産力が消費力をカバーしきれなくなってきている」風潮が見受けられます。そりゃ生産しない方が儲かりますもんね、今の社会。

 他にはサービスの売り出し方が如何にも自己(自企業)中心的な事業が廃れてきている点も(某ゲームハードとか…)。“金銭的効率”が全てという経済の回しかたに限界が来ているように見受けられます。

 

押し売りが通用する時代の終焉
 他にも、広告の意図が接触回数増加による報酬機会アップっていう時代錯誤をベースに「うるささを追求する」形で構成されるのが主流である時点で、ネット広告ビジネスは既に頽落を迎えているといえます。多くの企業がこれに気づいていないか、あるいは気づいても対応できていなかったりするのでしょうか。

 今はもう、広告の押し付け具合やうるささから「見る⇒不快」の方程式がかなり成り立ってるのに。そこで敢えて押し売り強化し続けることで、その媒体のイメージが却って悪化し続けてることにどうやらまだ気づいてもいなそうなプラットフォームが多いのが皮肉です。

 

お金の価値の減少
 また、“投資家”たちがどんどん商品や「まだモノになっていない概念」の価格をどんどん釣り上げていった結果、お金そのものの価値はインフレ率以上に下がっているという見方をすることもできます。

 せっかくお金を増やしても、結果的にその相対的価値が下がっているならだれも得しないという。ある種の奇妙なバブル状態(決してはじけるわけではないが)が現れてきています。

 ともあれ、お金が全てを支配するような環境が頂点に立ったとともに、そんな今の状況にこそ、個人的には金の時代の終焉のはじまりを見る感覚がある、というのが現状の主観的観測です。

 

社会のゼロサム化の加速
 個人的には日本という国のあり方に対して「インフラ、治安維持、司法、立法、そして最低限の社会保障のほかをほぼ有さない、夜警国家をやや改善した機能を有する国家」くらいが現状から考えられる改善点の最も合理的なものだと以前から考えています。

 言っちゃ悪いですが、現状行われる政策のほとんどは基本的に、実行者とその周囲の“お友達”の利益を除き「ほぼ邪魔しかしていない」から。中抜きというか、もっと大掛かりに経費が流れていくシステムがある限りは「何かするたびに国民にとってはロスしか生まない」という認識。

 実現可能性云々でいうとこれですら極めて低いわけですが、社会主義化よりはまだゼロではない程度のお話です。そもそも単なる「改革」でどうにかなる段階は10年以上前に通り過ぎてしまっています。政治家が誰か、官僚が誰か、というレベルで改善できるシステムではなくなっています。

 何しろ国政そのものではなく、そこに連なる利権システムこそが今の日本を作り上げている根源なので。もっといえば、明治時代からこの国の根本的な部分は結局変わっていなかったりするわけですが。

 民は君主の振る舞いを真似するとは数千年前の斉の晏嬰の逸話でも言われていることですが、社会的地位のある人々がこぞってゼロサムゲームに走っている現状、「お金を動かしてお金を直接的に儲けるのが最も効率が良い」「何らかの生産を行う産業(特に第1~2次が顕著)は儲からないので真面目に働く方がバカ」という風潮が強まるのは自然の流れなわけで。

 正直なところ、資本主義と社会主義の悪いところをうまく抽出したような国家になっているとここ10年以上つくづく思わされています。もちろん中枢にいる人々や、逆に最も下層(建前上)にいて恩恵を受けている人々にとっては「これ以上なく素晴らしい国家」なわけですが。

 

社会の持続可能性の摩耗
 その結果、主幹産業の担い手は減少し、またそこに所属することの見返りも相対的に目減りする一方になり、「投資家」ばかり増える世の中になると、どんどんその人口バランスは偏っていくわけですよね。

 ちなみに個人的には第3次産業も広義では「生産業」だと考えています。価値創出を行うのは産業の存在意義として当然のことですが、近年では「限られたパイを奪い合う」タイプの商業がはびこってきており、必ずしもそうとも言い切れなくなってきたからです。

 食料も生活必需品も生み出す人間がいてはじめて出現するのに、需給のバランスが狂ったあげく、極端な話、生産者が餓死するような事態になったら社会は崩壊します。

 なお、この状態では食物連鎖すら成り立たないので、動物の競争原理で語るのはナンセンスです。弱肉強食の原理が当てはまらないということです。なぜなら生産者たちは社会というある種の共通幻想によって弱者のように錯覚させられていますが、それを取り払った場合、生存する力は明らかに強者に属するからです。逆に、金融活動で生き延びている富裕層だけ生き残ったとしても、結局その裕福さを保ち続けることはできません。

 1~2次産業とかそうそう短年月で育つものじゃないだけに、一度ほったらかしてしまうと取り返しつかないんですよね…。再形成するのにどれだけの年月がかかるか。

 もちろん、新しく働き始める人間は特に効率良い方を選びたいのわかるし、当然のごとくカネでカネを増やす界隈への参入は今後も増えるのが自然なわけだけど、その上で少子化までこれ以上進んだら最終的には食べ物にすら困ってくるリスクがある、そういう感じです。

 ある意味ではこれらの減少全てが天の配剤によって、増えすぎた人口を自動的に減少させるシステムなのではないかと思うほどです。

 

金融経済&ゼロサムの限界
 食物連鎖では社会を維持できないから生産という行為が必要になっているという意味では、人類のアンバランスの原因が「そもそも人口が多すぎる」という発想自体は誤りではありません。

 ただしこれは原始に立ち返ることを前提としなければ成り立たないので、現代的な生活を継続するための論理としては破綻しています。真の食物連鎖は、文明社会のもとで成り立つものではありません。

 そういう意味で、「本位制を持たない貨幣」を一切の不合理のないものとして存在させることは不可能であり、これをさらに先鋭化させた金融資本主義という「金が金を生み出すのが最もハイレベルなメタ」である状態がせいぜい過渡期としてのみ合理的であるにすぎないシステムである原因になる。

 ゼロサムゲームに持続可能性が無いのは、「資本主義において成長しない経済は実質後退に等しい」ので、他人のパイを奪うのみで利益を出すことはマイナスサムに等しいから。つまり、食料を生産せずに食べていると目減りしかしないのと同じ。価値創出のない社会は衰退していくしかないというのはそういうことです。

 ここで、取引する商材に事欠いてデリバ ティブとかやり始めたあげく、それにも行き詰まってきている辺りに金融資本主義の限界を見たりするわけです。さらに溢れたギャンブラーが投資と本来無関係な界隈に乱入したりするのが何とも末期的だと思います。

 

持続性の萌芽はどこにあるか
 大規模な事業には大規模な資産が必要となるため、国家に頼らない社会を形成するとしても、個人でどうにかなるというものではありません。そういった意味で、資金や労働力を集約する機構としての企業の存在意義を否定することはできません。

 特に、株式の本来の意義である「事業の将来性に投資する」という概念は社会の持続性に対して欠かせないものとなっていると言えます。ただし、近年ではどちらかというと、このタイプの投資は「クラウドファンディング」という形で結実している例が多くなっている感を受けます。ゲームクリエイターが新会社を立ち上げたときのクラファンなどが典型例です。

 例えば1億円をもとにして生まれる資産所得は年利5%基準で500万円であることを考えると、企業体の利益に対する賃金の金額が極めて低いという現象そのものについては、決して非合理的なものではありません。

 ただし、その額が著しく低いことが現在の日本社会の抱える致命的な問題であることもまた事実。結局はバランスの問題です。内部留保だけ溜めている場合ではないはずですが、国家があんな状態なので反作用的に金銭が死蔵されている感があります。

 そうした仕組みを考える中で、今後は正しい意味での「会社」に近しい意味でのクラウドファンディング生存共同体、とでも呼ぶべきコミュニティの形成が必要になって来るのではないかな、と考えたりしています。

 あるいは一部の巨大企業にその萌芽が見える「企業主催による疑似国家」というものの形成も考えられます。もはや個人の生存を国家が保証しきれる時代ではなくなってきているため、将来的に衣食住を含めた生存に必要な要素をどうやって担保しておくか、という点に目を向けざるを得ない現実。

 

長期的に考えるしかない
 上記はこれまた現段階では現実味のある話とはいえないでしょうけど、それくらい根本的に行き詰まっているのが今の社会であるとも言えます。なので、かなり先の未来になるかもしれないことでも考えるしか対処法は見えてこないし、あるいは記事最初に取り上げた話を考える限り、時代の進みは思ったよりかなり早まっているな、と感じているのもあります。

 他に可能性のある話としては「革命」があると言われるかもしれませんが、これも事実上可能性ゼロとしてとっくに排除しているが故に省かれています。そもそも今の国際社会の中では万が一成功してもその後が続かないし、本当に万が一未満の成功率といえるし、さらにはこのような現状だと、捨て石になる覚悟で行動することにとても意義を感じられないでしょう。


 というわけで、一連の思考実験は以上です。他人との話の中で出てきた仮定も織り交ぜているので、一部は普通の感覚からすればあり得ない内容もあるとは思いますが、逆に言えば現実的なことだけ考えてもとっくの昔に詰んでしまっている時代ともいえます。

 何にせよ、社会の価値観に流されずに、自分の価値観を確立し、その上で無理なく時を過ごして機会を待つなり楽しみきるなりするのが現状の最適解なのではないかと思います。

関連記事

雑記:仕事と付加価値

ブレダン実録:金融資本主義&利権主義の限界

雑記:“他人より”思考は嫌われる?~比較優位による自己欺瞞の危険性~