【レビュー】書評と見解「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」

投稿日 2023年8月23日 最終更新日 2023年8月24日

 今回は、直近で読んだ本についてのレビューとそれに対して思うところをつらつらと述べてみました。


残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法(橘 玲)

商品紹介文「貧困、格差、孤独死、うつ病、自殺…世界はとてつもなく残酷だ。それに抗えとばかりに自己啓発書や人格改造セミナーは「努力すればできる。夢は叶う」と鼓舞する。が、奇跡は起こらない。生まれ持った「わたし」が変わらないからだ。しかし絶望は無用。生き延びる方法は確実にある。さあ、その秘密を解き明かす進化と幸福をめぐる旅に出よう!」

 

全体の感想
 闇鍋だけどそれなりに面白い本だと思いました。話があっちに飛びこっちに飛びと大変忙しいですが、概ねヒトという生き物や、ヒトが形成する社会のあり方について、遺伝や進化論などの研究結果に基づいてまとめられ、「残酷な世界」の真相に迫っていき、その中でどう生きていくかを考えるというスタンスが取られています。

 現代の「金融」「グローバル化」「インターネット」などによる社会の変遷に対して、メタとなる能力を持ち合わせていない人(つまりメタではない能力に遺伝的ステータスを振っている人)がどのように「能力主義社会」を生きていくかというのが大まかな主題かな。

 個々の内容自体はその分野に知見のある人にとっては今更感があると思いますが、「広範な雑学を1つの論理に結び付ける」という点が特徴であるとは思います。書籍自体が8年前のものであることもあるのか、やや情報が古いのは致し方なし。

 ただし、肝心の結論に行くと急に駆け足になり、ありきたりな内容に軽く触れて終わったのが竜頭蛇尾という感じがしました。「閉鎖的で報われない枠組みを出てグローバルで自由な社会を利用しよう」「ローコストで好きを極めればニッチな需要で勝負できる」という内容で雑にまとまってしまったのが残念。

 とはいえ、現代の金融至上主義、ビジネス至上主義になじまない人にとっては、共感や納得をしつつ多少の知見も得られる本なのではないかなと思います。

 その内容の中で、「能力主義と自己啓発」「貨幣空間が主体となったグローバル社会」について多少思うところがあるので、この2点について少し述べておこうと思います。

 

無理して努力する人生の是非
 まず語られているのが、自己啓発至上主義の主張と、それに対する批判の対立軸をベースとした、他人を評価する基準として「能力」を用いる能力主義の是非である。

 これに関して著者は、「能力で評価しなければ出自、年齢、性別、人種等で評価する“差別”をするしかなくなってしまう」という意味のことを述べている。だから逆説的に、能力主義を用いなければ人々は平等になることができない、という論法である。

 そもそも恐らく一般人の多くは、「能力主義」そのものに対しては悪いイメージを持っていないはず(と私は思っている)。この対立軸で問題になるのは、「ビジネスで役に立つとされる特定のスキルを嫌々ながら毎日必死で勉強し、その結果身に着けた「能力」とやらでまた嫌々ながら激務をこなしていく」という人生設計に対する是非なのではないかと私は思う。

 そしてそれがあってこそ、次に続いている「好きを仕事にする」による呪縛の話が生きてくる(生活が苦しくても量産型歯車としての仕事には戻れずにズルズルと続けるお話など)。結局のところこの話(現代における能力主義や自己啓発主義の是非)の根幹は、現代ビジネスに適応する人間がナチュラルに活躍している中で、そうでない人間は割の合わない努力をして儲けるか、好きを仕事にするを貫いて儲からない生活をするか、両方を半ば捨てて誰でもできる「マックジョブ」の歯車になるかの選択を強いられがちであるという点になる。

 

 あらゆる才能に通じる万能の天才も、時間だけは無限ではない。時間は万人に対して平等である。そのため他人に任せられる物事は他人に任せ、自分にしかできない仕事を優先するのが効率的となる(逆の側面から見ると「時間単価が最も高い仕事」を本人が行うのがベターともいえる)。

 このとき、他人に任せても効率の低下が比較的「マシ」な仕事は、任せられる人間にとって「比較優位」となる。例えばAさんは執筆、校正の能力がともに100。Bさんは執筆の能力は10しかないが、校正の能力は50ある。このとき、Bさんにとって校正の能力が比較的に優位となる(Aさんは執筆に専念し、Bさんに校正を依頼するのが適切な行為)。

 この比較優位の原則があるからこそ資本主義は相対的に全体が得をする。この発想そのものは間違いではない。しかし、現代の金融資本主義があまりに偏った「ビジネス」にのみ大きなリターンを付与していく構造をしているという根本的な課題があるため、なかなか簡単に話は進まない

 総じて、資本主義や能力主義の先進性は否定しないが、人類社会の真の課題はそこにはないことを思い知らされる内容であったとの印象。そもそも嫌いなことを無理してでも努力して稼ぐ人は、このような問題に直面しないというお話でもある。
※なお「現代の金融資本主義」は広義の資本主義と全く別のものであるというのが私の認識。その特徴はゼロサムやマイナスサムの巨大化と、それによる価値生産者からの収奪の加速である。

 

人々は真にグローバル化に馴染んだのか?
 著者は個人を取り巻く環境を、大まかに次の3つに分けている。家族や恋人などで形成される「愛情空間」、親しい友だちにより形成される「友情空間」、(愛情空間と友情空間に、もう少し希薄な関係も加えた「政治空間」も別枠で設定されている。いわゆる村社会の意。権力ゲームの領域内)。そしてそれ以外の他人によって構成され、貨幣でつながる「貨幣空間」である。

 現代のグローバルな世界のほとんどは「貨幣空間」によって占められ、この空間では前述の「差別」に該当する概念や、理不尽な「村八分」などによって不平等をこうむることもない代わりに(ここは細かいことを言うと突っ込みどころがあるが割愛)、対人関係は希薄ながらフラットとなるとしている。そして「友情空間」はもはや現代の大人たちがそうそう得られるものではない、と。

 確かに超客観的に見ればこれは概ね間違っていない。「学生時代の友人」というカテゴリを除いて友情空間が構築されることはまれであるし、それ自体も長く維持されることは決して多数派ではないだろう。

 だからこそグローバルで平等で、努力をすれば報われる空間に順応していった方が合理的であるというのも全くその通りである。

 

 しかしながら、この論説には盲点がある。それは現実問題として「人々は貨幣空間に順応できているのかどうか」「友情空間を持たずに生きることに耐えられるのか」という観点である。

 確かにマクロの観点からすると、「友情空間はほとんど存在しなくなった」「人々は貨幣空間の中で上手くやりくりして生きている」「特に成功者であればあるほど順応している」という事実は間違っていない。

 しかし、ではマジョリティである一般人たちはどうだろうか。著者は「貨幣空間の人間関係があれば充分だと考える人が増えてきた」と言っているが、ここに少々異論がある。相変わらず身近な人間関係に対して「疑似的な友情空間」を作って貨幣空間への違和感に耐えているように私には見えてならない。未婚率の上昇により愛情空間の所持率も低下していることだろう。果たして政治空間なしに人々は正気を保って生きられるのか。

 現実世界に根付いている人々なら例えば、会社やパートの同僚に対して「疑似的な友人関係」をつくっている人は決して珍しくない。決して貨幣で結びついているわけではなく、「友情空間に似た何か」を形作ることによって己を保っていると言える状態だと私は考える。

 逆に、ある種の最もグローバルな空間であるはずのインターネットをホームにしている人種も、決してそのグローバリティそのものに順応しているとは言えない状態だといえる。

 例えばSNSを例にしたとき、かつてのそれはMixiやGREEなど、ある種のエコーチェンバーや「元からの友情空間」を対象とした「ゾーニング」のあるアプリだったのに対し、近年では「貨幣空間的なボーダーレスの領域に垂れ流すだけ(個人to個人以外に「集う」という機能が付与されていない)」というX(旧Twitter)やInstagram、Facebookなどのタイムライン式アプリが主流になり、非対称性を是とするグローバル化が徹底的に突き詰められたことは確かに間違っていない。

 しかしこれは表面的な見方だ。実際には彼らはそのボーダレスな空間そのものをホームとしているわけではなく、「グローバルな社会からは見えない部分」に「疑似的な友情空間」を作成し、そちらに安住しがちであるからである。インターネットの「村社会化」の進展である。

 このような村社会化のためのツールとして用いられるのが例えばDiscordであったり、SNSの鍵アカウント(フォローを承認したユーザーからしか見えない)などであったりする。

 アングラから表社会へと掘り起こされてしまった、つまり貨幣空間の極致と化したインターネットは、住民にとって決して居心地が良いわけではないという証左である。彼らはさらなるアングラを形成して、疑似的な友情空間に身を潜めている。本質的には「友人より遠い政治空間」に近い、何かあればすぐに断絶する関係であることは確かだが、それでも人々はそれを求める。「開かれた世界」の希薄さに耐えられていないのである。

 その結果、「情報」や「つながり」はそれぞれ、疑似的な友情空間の内部で共有されるのが基本となり、インターネット貨幣空間には「マネタイズのための希薄な情報」や「虚偽の情報」、「見るだけの関係性」などの極度に希薄化されたものが立ち並ぶという妙な様相を呈している(もちろん例外はあるが、敢えてそれを行う人はマネタイズ目的以外ではレアケース)。

 結局のところ貨幣空間をうまく活用しようと思ったら、誰かの友情空間ないし政治空間に直接アクセスしなければ何も始まらないことが多いのである。「続きは公式LINEに登録してね」的なノリ。何だかんだで政治空間の「権力ゲーム(コネクションゲーム)」なしで何かができる人は決して多くない。

 

 というわけで、「合理化」の極致として生まれた貨幣空間は、それに順応する比較的少数の人たちが牛耳ることとなり、彼らは成功者となった。一方、マジョリティである非順応者たちは、仮初でも良いから友情空間を形成し、そこに避難することで辛うじて生き延びている。

 あるいは、本人は順応しているつもりかもしれないが、他人のサービスやノウハウに便乗して努力を続けた結果、養分になっているだけの人も多い。「投資家」「副業主」「個人事業主」が近年の投資ブームや副業ブームでさらなる増加傾向にある。

 本文の遺伝に関する項目にもあったように、合理化のための進化論によって「新たな世界に適応する者のみ子孫を残す=適応しない者が淘汰される」ことを必然と捉えるのであれば、今後はそういったマジョリティがじわじわと淘汰されていき、マイノリティである貨幣空間への適合者の遺伝子のみが残されていくことになるのかもしれない

 実際、近年の傾向である先進国の人口減少に関しては、そういった側面も働いていると考えられなくはない。その中で、適応しないものがどう立ち回っていくか、というのが課題となるわけだ。

追記:しかし、よくよく考えてみれば、インターネット世界のボーダレスな領域も、承認欲求や広告収益目当ての「票稼ぎ」が一般的で、その中で「票田」を多く持つ人間通しのつながりや影響力の存在も否定できない。また、「無名でも内容が良ければ注目される」という記述に関しても、私が過去記事のどこかで触れたように「そもそも目につかない」「あるいは目についても無名だからスルーされる」が基本であり、二番煎じまたは偶然後から同じ内容を発信した人間のものが注目される仕組みなのはネット慣れしている人ならだれでも気づいているはず。人は内容よりも「誰が発信したか」の方に9割がたの重点を置いていることが分かる。

 著者の言う「評価を得るための枠組み」も決してフラットではないのではないか、と思い直しました。前述であまり踏み込まなかった話題を蒸し返すことになるのですが、権力ゲーム(この場合は承認欲求ゲームではあるが)の存在しない貨幣空間というものは机上の空論で、そこから政治空間的要素を排除するのは極めて難しいのではないか? と思うわけです。何のリアクションももたらさない多くの人々に監視されているような状況が薄気味悪く思えて、つい最近X(Twitter)のアカウントをリセットして知り合いのみのFFに設定し、フォローされないようなアカウントにすることを意識して使い始めたのもそういう理由。

 そう思うと、ある意味では貨幣空間に徹した「宅配員」「店員」などの方がフラットに付き合えるというのは確かにそうだし、そういう意味では「伽藍を出てバザールに向かう」という、利害だけで結びつく関係性の方が健全になりやすい社会になったこと自体は確かに思えます。まだ現実が概念に追いついていないだけ。

 

その他
 他にも、「自分を変えられるか」をテーマに、遺伝で決まるもの、決まらないものを区分けしてその特徴を述べたり、「他人を支配できるか?」をテーマに人心操縦術について考察したり、「幸福になれるか?」をテーマに幸福という概念の定義や現代ならではの意味喪失と新たなる定義である「お金より大切になった他人からの評価」についてなどが語られている。

 そして結論が冒頭で少し触れたような「伽藍を捨ててバザールへ向かおう」としてグローバル市場の利用を勧め、「ショートテールよりロングテール」として、世界一を目指すのではなくニッチなジャンルでのヒットを目指すべき、ということとなる。


 まあ超個人的に言うと、その前提として挙げられている「ビジネスモデルを自分で考える必要がある(グーグルなどのローコスト媒体を利用して)」というところで「だから現代ビジネスのマネタイズを考えるのが最も心底生理的に無理なのが一番のネックなんだが?」と個人的には何度も行ってきた発言を繰り返さざるを得ないという点で、新たな発見は特になかったのが惜しいところ。やはり私にはビジネスが大好きな同志が見つからなければ歯車からの離脱はかなわないらしい。省エネライフをしながら収益を期待しない活動をしていく生活に勝るものは今のところ存在していない。