雑記:「嘘も方便」~教導者の発言が矛盾する理由

 学問でもその他の物事でもそうですが、「同じ人がなんか矛盾してることを教えてる」って突っ込みたくなることありませんか? 今回はそれに関するお話です。


ウィクショナリーより
嘘も方便
1.仏が衆生済度にあたっては、方便(手段)として嘘をつくこともある、
  ということから、大きな善行の前では、偽りも認められるということ。
方便
1.(仏教語 サンスクリット「ウパーヤ」の漢訳)悟りへ近づく方法、
   あるいは悟りに近づかせる方法。

 「嘘も方便」「方便」の指し示す本来の意味は上記の通りです。ちなみに2番の意味に関しては、現代よく使われる軽いニュアンスのものが記されています。

 つまり「嘘も方便」とは本来、仏教における悟りに人々を近づかせる教導のために必要な嘘もある、というニュアンスだと分かります。

 

現代における「嘘も方便」の例
 仏教の話へ深入りしても分かりにくいので、まずは現代における教育の例で示してみます。たとえば円の周の長さや面積を求める際に使う円周率。本来は3.1415926…と永遠に続く無限小数ですが、数学においてはこれを「π」という記号で代用します。

 通常、文字式は不定数または特定できていない数を指し示すものですが、πは例外で「特定の数を常に表す記号」として用いられる、数と文字の間の概念です。であるからか、文字式の中では数の後、文字の前に並べる決まりになっています。

 しかし、πを扱うには文字式の計算を身に着けている必要があります。そこで、文字式の概念自体をほとんど学んでいない小学生や、文字式を初期で学ぶものの「π」の概念を学ぶ段階に達していない中学生に関しては「3.14」という四捨五入を行った数値で代用するように定められています。一時期は「3」を使うなんてパターンもありましたね。

 しかし、円周率の値は3.14でも3でもありません。つまり「嘘」を教えているわけです。しかしこれは、円に関する計算方法を早い段階で学ぶために、必要な嘘であることを否定する人はあまりいないのではないでしょうか。

 

 教育の世界ではこれ以外にも、初等教育で高等教育の内容をいきなり理解することが難しいことを理由に、簡易化された「嘘」の概念で一度教育していることは珍しくないと思います。まずは大枠で理解してもらわないと先に進めませんからね。

 こういった、「いきなり真理を教えようとしても絶対理解できないから、即席の踏み台を作っていったん上に登ってもらう」というあり方こそが「嘘も方便」という概念であると言えます

 小さな子供の背の高さだと柵の向こうを見ることができないので、踏み台や肩車で高さをかさ増しして新しい世界を見てもらう、という感じですね。

 

仏教の場合について
 私は仏教の専門家ではないので、誤った知識を広めてもいけないという理由で多少お茶を濁した話し方になります。仏教は元来、釈迦(ゴータマ=シッダッタ)の教えから派生して一大宗教となった概念であり、釈迦の教えを理解して「悟り」に近づく精神活動であると言えます。

 しかし、時代が進むにつれて、上座部(小乗)仏教or大乗仏教のみならず、密教ができたと思えばそれも複数に分かれたりとか際限なく枝分かれしていきました。それぞれの目的の本質は変わらないはずですが、教えの質や修行の在り方は異なるものとなっていったのです。

 細かい話をしてもしょうがないので割愛しますが、「多くの人に広めよう。わかり易くするために新しい解釈を積み上げよう」という教えが広まったり、「後付けの解釈が増えて釈迦の教えそのものが埋もれ、分かりづらくなっているので本来の教えに立ち返ろう」というものも出てくるし、「シンプルに念仏や題目を唱えればそれだけで救われる」というものもあります。

 仏教においては、このような釈迦の教えそのものではない、後代の人が悟りを広めるために行った活動のことを「嘘も方便」といって差し支えないのではないかと思います。

 

スピリチュアルの場合
 近年再び流行りつつあるスピリチュアル。最近のものは、かつての超常現象的、宗教的な「教え」とは異なり、心理学や脳科学、哲学などを昇華させた概念として広まってきています。

 そんな中でまず第一によく言われることが、「自分の本心に従って、心からやりたいことをやれば良い」「他人に迷惑がかかると思って無理に我慢するという発想は良くない」という内容です。

 前者に関しては慎重な論者なら「でも他人に迷惑をかけても良いとは言っていない」と付記することもあります。自己中心的な人格の人をけしかけることのないように予防線を張っているわけですが、すると1つ目と2つ目の教えには矛盾が生じます。

 どうしてこのような矛盾が生じるかというと、この言葉の大前提には、「たいていの人は社会や他人の価値観に左右され、無理して偽りの自分で生きている」という解釈が入っているからです

 例えば、日本の戦後社会の(民衆に対して刷り込まれた)価値観に従い、謙虚で真面目に生きてきた人と、自己中心的で、人を人とも思わず生きてきた人ではこの言葉の捉え方は違います。それぞれ両極端な人が同様の言葉をとらえた場合、どのような解釈をしそうか考えてみましょう。

解釈する言葉
1.他人に迷惑をかけない。
2.やりたいことをやる。

●真面目な人
1.非道徳などの明らかな迷惑行為以外も「迷惑」と捉える。
・「他人に何かをお願いするのは迷惑」
⇒心から喜んで手伝う人もいる。
・「会社を退職すると自分の穴を埋められなくなって迷惑」
⇒正しい手続きを踏めば契約行為として適切であり、
 世の中、絶対に替えが効かない人などそうそういない。etc...
2.比較的本来の趣旨に添った解釈をする(またはそれでも足りない)。

●自己中心的な人
1.比較的本来の趣旨に沿った解釈をする(またはそれでも足りない)。
2.他人や社会への迷惑を顧みない行為もOKと捉える。

 スピリチュアルや人生哲学に関しては、それを学びたいと思う人の質が比較的「真面目で、向上心を持ち、人生を変えたいと思っている」方に偏っている可能性が高いため、そういった人々をターゲットとして教えられることが多くなります

 なので、上記2者のうち前者をターゲットとして教えられている前提であれば、冒頭で挙げた導きによって、人としての在り方の偏りをニュートラルに近づけることができると考えられます。逆に、自己中心的で他人に迷惑ばかりかけて生きている人は、「まだそれを教えられて理解できる状態ではない」というわけです。

 つまり、自己中心的な人は社会に根差して「他人に迷惑をかけてはいけない」「やって良いことと悪いことがある」という教育を受けるのが先といえます。要は、だ初歩のスピリチュアルを学ぶ段階にすら達していないというわけです。ていうか、これって幼少期の教育ですよね。そう思うとわかり易い。

 他人への迷惑を顧みなくなった人は、まず他人との関係性の中で生きるすべを身につけて初めて、本来の自分を保って生きる方法を模索する入口に立てるという視点です。

 つまり、「他人への迷惑を気にしすぎず、やりたいことをやれ」を学ぶ前の踏み台として「他人に迷惑をかけてはいけない、やって良いことと悪いことがある」というある種の「矛盾した内容」を身に着ける必要があるということです。

 すべての教育には「段階」というものがあるということです。物事を学ぶと、このような矛盾に遭遇する機会が多々あります。今回は社会的マジョリティである一般の学生&社会人に分かりやすくするために、入口も良いところの内容を例としてみましたが。


まとめ
1.教導者が矛盾することを言う理由の1つに「嘘も方便」がある。

2.物事を学ぶには段階があり、上に登るために仮の踏み台が
  必要になることも。その踏み台が「方便としての嘘」である。
⇒背の低い子供が柵の向こうを見るための踏み台のようなもの。

3.例えば円周率(π)は小学生で3.14と仮に表すが、
  それは正しい数値とは異なる。
⇒でも、円の周の長さや面積の求め方だけは理解させたい。

4.仏教の教えを広め、悟りに近づいてもらうために、
  本来の教えの中には無い内容を教えることがある。
⇒狭い世界でのみ語られる難解な教えではなく。

5.スピリチュアルや人生論を学ぶときも、
  段階に応じて「個々の内容が矛盾する」ことが多い。
⇒文面だけ見て論破しても何の意味もなくて、
 それぞれの言葉のバックボーンを理解すれば自然とわかる。

何事においても、学んで身につけるにはいくつものステップがある。
個々の内容だけ切り取れば矛盾すること(嘘)はあっても、
それはステップアップするためには必要な内容である。
これを「嘘も方便」という。

 言葉尻だけ捉えて批判するタイプの人も世の中にはいるので、そういう人は人生損してるよ、という感じですね。そして物事を教える人は、相手のレベルを弁えて「方便」を使いこなしましょうということでもあります。

 余談ですが、物事を突き詰めて、考察して、練習した結果たどり着く疑問が「初心者にありがちな質問」と同じなんてことも時々あるんですよね。そしてそういう疑問は普通に検索したり聞いたりしても、当然のことながら初心者向けの「方便」の答えしか返ってこない。そういう世知辛い現象も世の中にはありますね。