【雑記】ガチャへのリアクションから怒りのレイヤーとヘイトコントロールについて考える

投稿日 2023年10月11日 最終更新日 2023年10月11日

 昨日の記事に関連して、ちょっとひどすぎる結果と体調不良による寝不足とのシナジーを消化するために公式のディスコ―ドサーバーを少し覗いたのですが、ガチャの爆死に対するほかの人の反応の中に「運営(とそのコンテンツ設定)に対して怒りを向ける」人がそこそこいるように感じられました。ちょっと不思議に思って自分の場合を加味して考えてみます。


コンテンツに怒る人たち
 昨日のガチャに関しては「ピックアップ率が0.5%しかない」という設定から、すり抜けが多すぎることにキレている人が多数いました。そういう人たちは回すだけ回した結果がダメだったのを見て、「やっぱりこの確率はおかしい」ということを、強い言葉を用いて批判するらしい。あるいはもっと単純に「運営へのヘイト」を丸投げする人も。

 このタイプは単純に「予定内のリソースで目的のものが引けなかったことへの直接的な怒りを向ける矛先を探す」というストレートなタイプなのだろうとは思います。少なくとも、200連以上したうえで「怒っている人」は見かけませんでした。つまりは結果に対して原因を求めてストレスを発散している感じですね

 

数値からの乖離を忌避する私
 一方、140連続けて星3(高レア)キャラがそもそも出なかったという私のリアクションはどうだったか。基本的には「怒りとかは無くただ気分(具合)が悪くなる」(もっとひどいアラドの増幅とかでは吐き気のような気分になるけど)っていう感じですが、それだと安易すぎるので「気分の悪さもヘイトの1種」と捉えつつ、もう少し掘り下げます。

 確かにその場で何かに対して怒りを向けることはありませんが、どちらかというと私は、4%出るはずのものが300回近く試行を重ねても1.4%しか出ていないこと、つまり「設定された確率に対して、異様に下振れをしていること」が気分を悪くする原因になっています。さらに追加で、確率に対して試行回数が多ければ多いほどこの傾向は強まります(ある程度の収束を期待できる回数への近さ)

 基本的にはそれで終わることが多いのですが、極端にひどい時には追加で「すべてが落ち着いた後で理性的に考えた結果、「自分の運ステータスが異常に悪いこと」「運(確率)という数値化されたシステムがこの世に存在すること」に対してヘイトを向ける傾向があります。

 数値化されたシステムとしての運とは要するに抽選のことですね。だから例えば、「道端で石に躓く運」「質の悪い人と出会ってしまった運(ここ数年はないけど)」「欲しかったものが直前で売り切れる運」などの数値化できない運要素に対しては、出来事そのものへのリアクション以外で感情を持つことはありません

 

結果(勝敗)そのものは無関係
 つまり、0.5%のピックアップ(2人合わせても1%)が70連で出なかったことに対しては、おかしなことだと思っていないのです。だって100回すら回していないし。逆に、4%の思考に140回連続で失敗するのがちょっとあり得ない酷さ(ちなみに発生確率は約0.33%というリアクションになっています。

 要は、数値のくせに期待値を予測できない結果をもたらす偏りに対して怒っているといえそうです(キレてはないんだけど)。だから、0.5%のピックアップが出ないことに大きめの反応を示すには、300~400回程度の試行回数が必要なのではないかな

 とまあ、自分自身は徹底的に文系の人間なのですが、まるで理系に片足を突っ込んだかのような反応になっています(本当の理系は偏り分布まで計算するのかもしれない)。

 あと単純に、滅多にないことならそんなに気にしないけど、何かやるたびに高確率でこのような「極端な確率への乖離」が発生するからこそ発生する事案であることが確かです。だからこそ「運ステータス」へのヘイトが向くと言えるでしょう。

 なので、前回の記事で私が「通常ガチャへの課金を再度控える」と言ったのは、出なかったからではなく、今後も4%が期待できないからというのが最も根本的な理由と言えます。4%といわずとも、3%程度出るなら文句言わないんですよね。だから運営に対して怒りを向ける余地は特にない

 結局のところ、「数値」という最も合理的であるはずのものが、長期継続的に理不尽な挙動を示すことが嫌いなようです(長期継続的、という条件が大事)。

 

感情のヘイトと理性のヘイト
 そう思うと、現象そのものに怒り、目に見える「直接的な対象」に対してそれをぶつけるというのは、発生した感情を手近にぶつける、ヘイトコントロールを全く行っていない状態と捉えられます。

 「世の中が悪いのは〇〇のせいだから辞めろ」「上司のせいで仕事が云々」などという安直な批判は概ねこれに近しいものといえそうです。

 一方、原因と結果とその要素を分析したうえでヘイトっぽい何かを向ける私は、ある程度のヘイトコントロールを行っているけどリソースの管理が甘いと言えるでしょうか。この場合の本当の最適解は「そもそも結果がゼロになっても何の痛痒も感じない金額を投入してさらっと流す」ことでしょうから。「残念だったね」という感じ。

 とはいえ、そのように余裕のあるリソースを抱えている人間はこの世界では限りなく少数派で、完全回避は「何もしない」しか存在しなくなるため、「結果を踏まえて、久々に始めかけたガチャ課金をもう一度取りやめる」という次善のヘイトコントロールへと至ったといえるでしょう。

 このような私の立ち回りをさっきの例にたとえると、私にとって現状の世の中は「そうなるように仕組みができているから、そこらの政治家に対して憤ることすらできない」ということに通じそうです。「敵」とは、攻撃や批判の対象ではなく利害相反の立場を指す、みたいなところがあるので、「敵だから憎む」という発想もない。

 

 

ヘイトコントロールの段階
 ここまでの話を踏まえると、ヘイトコントロールを行う第1歩はまず「目先の出来事から得る感情を一度胸の奥にしまえるようにする」ことが必要とわかります。よく言われる話です。感情そのものをぶつける場合、往々にしてそれ自体が理不尽な怒りとなるので、これができないとトラブルも生みやすい。

 次の段階は、因果関係を見直して「おかしなことではない」物事が多いと気付き、理屈で納得することかもしれません。0.5%のピックアップは100回引いても、6割程度の確率でしか当選しないのです(個人的には思ったより高いけど⇒これが運ステータスですか)。あるいは、「相手の立場ならそれを行って当然」とみなす心持ちもこれに類すると思います。サッカーで敵チームからボールを奪われて「どうして奪い取るんだ!理不尽だ!」と怒る人はそう多くないでしょう

 さらなる段階は、「期待値から大きく外れた結果が出ても、理屈抜きに許容できるレベルで物事を行う」ことといえるでしょうか。年収1億円の人がちょっと300連したところで、痛痒を感じることはないですから(本当の資産家は節約家であることが多い、という話はさておき)。

 この話はお金だけではなく、環境や気持ちについても言えます。ちょっと電車が遅れても「しょうがない」と思えるような環境に身を置いたり、ちょっと煽られても「生暖かい目で上から見下ろす(「みくだす」ではなく「みおろす」ことが重要」ことができるメンタリティを育てたりなど。

 結局のところ、完璧なヘイトコントロールを行うには「手持ちのリソースや環境や気持ちに余裕を持たせる」ことが必要という、民衆でしかない我らにとっては非常に微妙な結論になってしまいました。でもだからこそ「本当に持てる者」である人たちが鷹揚であったり人のための行為を惜しまなかったりするということを再度認識する材料であったとも言えます。