投稿日 2021年5月22日 最終更新日 2021年5月22日
基本無料ゲーム
オンラインゲームやスマホアプリなど、現在では一般的となっている「基本無料、アイテム課金」のゲーム。遊ぶだけなら無料だけど、強さや利便性、はたまたコンテンツ攻略のためには重課金が必要となることも多々あるビジネススタイルです。
個人的に、このタイプのオンラインRPGの良いところって、クリアを超えた趣味(数字やプロセス短縮)のところに重課金ラインがあって、そこにまた面白さがありつつも、それを欲しないプレイヤーとの住みわけができるところや、短時間プレイヤーも課金で補えるところだと思っています。
たとえばアラド戦記だと、最強称号やクリーチャーがなくてもたいていのコンテンツをクリアできないわけではない、でもエンドコンテンツで活躍したり、高難易度コンテンツで良い結果を出そうと思ったりすると、ある程度の課金は必要になる。さらに増幅などの本当に趣味の要素をしっかり詰めれば、高難易度コンテンツの攻略がもっと楽になったり、タイムアタックやソロ攻略ができたり、などといった感じが長く続いていました。
そしてプレイ時間が短い人は、例えば課金アイテム売りでゲームマネーを補ったり、あるいは利便性の上がる課金アイテムを購入したりすることで、無課金だけど長く遊べるプレイヤーとの差異を埋めることができるなど、色々なプレイスタイルが許容されました。
なくても不可能は生まれないけど、あったらできることが増える。無課金で時間を多く費やして遊んでもいいし、課金でプレイ時間を短縮して美味しいところだけ楽しんでも良い。こういう遊び方の幅の広さが基本無料ゲームの良いところだと考えていました。5年以上前のMOやMMOは大体こういうのが多かったと思います。
ただし、重課金者だけが参加できる「必須ではない」高難易度コンテンツの存在は、上記の流れとは別に面白いものだと思っています。アラド戦記におけるハードイシスとかがそれです。一部の人だけが参加できるエンドコンテンツってのはあって当然と思います(ToSのギルティネは重課金でどうにかなる次元じゃないのでどうかと思いますが、というかボルタショックの霊圧のせい)。
「人権」の定着
でも時代が進むと、決まった装備や強化値、さらにはそれらを総合した数値(アイテムスコアとか戦闘力とか呼ばれます)を満たしていないと、ダンジョンへの入場自体が不可能となるなど、同じくらい頑張った人だけが参加できるシステムが加速していきます。
アラドだと抗魔システムは昔からありましたが、これは異界ダンジョンなどの固有ドロップ装備で完結していたのでさほど問題だとは思っていませんでした。しかしその後リリースされたオンラインRPGでは、天井を外すのではなく「足切りライン」としての要素が加速していき、装備強化値とか、ガチャアイテムによる数値強化とか、そういった要素を含んでの数値を要求したりするようになっていきます。
また、コンテンツ内の制限時間を設定したり、いわゆる「DPSチェック」、つまり一定時間内にPTメンバーが決まったダメージを出せなければ強制的にクリアを失敗させるシステムが主流になっていきました。アラド戦記ですら、たとえば異界ダンジョンや古代ダンジョンは1回に30分以上かかっても全滅しなければ攻略可能だったのですが、アントンレイド以降は制限時間制、ディーリングタイム制がデフォルトとなり、攻略失敗を避けるというベクトルでのダンジョン攻略を求めるアップデートが進みました。
ロールシステムの衰退
また、そうした傾向とともに進んだのが、ロールシステムの排除です。オンラインRPGは元々、盾(タンク)、回復(ヒーラー)、火力(アタッカー)、補助(バフ、デバフ)などの役割(ロール)をそれぞれが担当し、協力して敵を倒すゲームシステムが基本でした。しかし、近年のそれは、そういったロールを一応残しつつも、「全員がダメージを出せなければ討伐が難しくなる」とか、「ロールそのものが形骸化してどの職をやってもやることは大差ない」とかいった現象が定着していきます。
元々のロールシステムだと、たとえば補助職は装備強化など一切いらないからバフデバフだけしっかりすれば活躍できる、などといった遊び方もありました。アラド戦記で例えると、アントンレイドでソウルブリンガーやダークテンプラーなどはデバフ、拘束装備があれば活躍できるのでエピック装備が必要なく、火力職の多くはエピックか、妥協でレジェンダリーを用意しなければ枠自体とれない、という時期がありましたね。
前者のようなアタッカー以外の職に関しては、お金を一切かけず参加できることから「寄生枠」といった呼ばれ方をすることもありました。キャラクターによって参加ボーダーの格差があることは、時には他人からのヘイトを買うこともあったことは否定できません。近年のゲームにおいて参加権が全職共通になっていったのは、そういう平等を求める圧力が働いたことも確かだと思います。
平等圧によるプレイスタイルの狭まり
しかし、そのような平等化を進めると、基本無料ゲームの魅力であった「幅広い遊び方」からだんだん遠ざかっていきました。元のロールシステムだと、盾や火力を担当する人は装備をしっかり整えて、補助枠の人の支援を受け、回復枠の人に守られつつ討伐する、といった持ちつ持たれつの形でプレイしていました。実際、火力や盾をやる場合でも、負担は大きいもののそれはそれでやりがいはあり、活躍している実感も得られるので悪いものではなかったと個人的には思います。また、補助や回復もある程度のプレイヤースキルがあってこそ攻略できるので、そういった上手さも醍醐味となっていました。
しかし、みんな同じような装備を用意しないと、そもそも参加できない。というシステムでリリースされたゲームでは事情が大きく異なります。少なくともバフデバフはもはやアタッカーにオマケとして付与される場合が多く、下手をすれば回復もオマケ化する場合すら多々ありました。それぞれが全く異なる動きをしつつ協力する、というよりは、みんなで殴りつつ職特有の特殊スキルを合間に撃っていくという逆転現象が起きたのです。
それとともに進展したのが、いわゆる縄跳びギミックの定着です。自分の攻撃を当てる、敵の攻撃を避けるといった戦闘的な概念ではなく、システムによって決められた動きを必須として、成功すればペナルティ回避やプラスの効果を受け、失敗すれば大ダメージや即死を受けたり、下手をすればダンジョン攻略自体が強制失敗したりするシステムですね。例えば特定のパネルを踏むとか、全員が決まった場所に集まるとか、戦闘行為とは関連性の見られない動きを暗記的に行わせるのが一般的です。
サラっと書きましたが、ゲームをやるのにただの暗記が多々求められ始めたのも大きな変化だと思います。
基本無料プレイではキャラクターの装備格差が激しくなるきらいがあるため、強いプレイヤーは敵の特殊攻撃をないもののようにゴリ押しで倒してしまうことは珍しくありませんでした。そういう状態をゲーム開発者たちが良しとしなかった側面はあるでしょう。しかし、ロールの撤廃とともに縄跳びギミックへの対応を強制された結果、みんな同じような動きをするゲームというスタンスが当たり前になっていきました。平等にはなったけど、個性がなくなってしまった。
※というか、MMOでは敵の攻撃をほぼすべて回避したり、被ダメージを1にしたりするステータスの暴力もロマンだったと思うんですよね。
すると参加基準の平等化も相まって、プレイングの個性が出しづらくなっていきます。取得しているスキルを順番に出していき、ギミックが来たらみんな決まった動きをする。むしろギミックが来るからそれを予期して攻撃を止め、待ち構えていなければならないことも。何ならギミック処理を行っている時間が一番長い。アクションとはとても言えないし、RPGとしても非常に物足りないというのが個人的な感覚でした。縄跳びギミックは強制で発動することが多く、敵の倒し方を工夫する余地も非常に狭くなってしまいます。また、DPSチェックや制限時間の要素から、強い装備でなくても工夫して倒す、というやり込みも不可能になりました。
これに関しては、RPGにアクション的な動きを無理やりねじ込みすぎる風潮にも違和感を感じています。この話題だけで1記事書けそうなのでざっくりいうと、アクションとRPGってもともと相反するゲーム性を持つものなので、よっぽどうまく調整するか、片方の要素を形だけのものにしないとうまく成立しないんですよね。敵の攻撃を全部回避できて良いのがアクション。敵の攻撃を食らいつつもステータスで耐えつつ攻撃し、倒していくのがRPG。
ゲームバランスを意識した設定にしすぎて、強すぎても弱すぎてもイマイチ遊べない、という不思議な状況です。ゲームによってはそうしたやり込みの幅が比較的広いものもありますが(アラド戦記は元々古いタイプのゲームであったこともあり、まだ広い方です)、全体的にそういう傾向が一般的となっていったという感じです。攻略難易度のバランスだけでゲームの面白さは決まるわけではない、多少雑なバランスのほうが逆に試行錯誤の甲斐があって面白い、っていう逆説はあると思います。
スタートラインのソシャゲ化
そして、次に現れた現象が、横並びのスタートラインに立つのに課金が必要になる現象。これ、スマホアプリでMMOを自称するゲームが乱造されるようになったあたりから非常に顕著だと思います。装備を集めただけではダメで、例えば一定の強化値がないと参加ができなかったり、さらに参加ギリギリラインの人が集まった程度だとどんなに上手くてもクリアできなかったりして、その強化に重課金または極端な幸運を必要とするゲームです。
例えばアルピエルなどはキャラクターの見た目がかわいい系で、さらに生活コンテンツも充実している売り込みながらこの傾向が強く、数多くのライトユーザーを序盤で締め出してしまいました。むしろ強化もアバター(ステータスアップあり)もあまりにシビアな確率設定であったため、結構な課金額を費やしたユーザーすら萎えてやめてしまうこともあったので圧が強かった。
アルピエルの例は非常に明快で、一時的には比較的多くの利益を出せたかもしれませんが、ライトユーザーが減ったことにより人口が大幅に減り、結果的にパーティを組める機会の減少を誘発し、ボーダーラインについていけていたプレイヤーも脱落させてしまうという負のスパイラルを生むことになりました。私がやらなくなったのも、レイド参加ボーダーを満たしたプレイヤーの少なさと、人口の過疎が最大の原因でした。
この売り方ってソシャゲに似てると思うんですよね。スタートラインが重課金化するスパンが異常に早いのがソシャゲ。新たなコンテンツが実装されると、新たなキャラクターがガチャに入り、そのキャラクターがいないとクリアできないバランスにしておく、というのは非常にありふれた光景です。射幸心だけでなくてクリアするのにある程度課金しないとついていけない。つまりスタートラインに立つのに結構なお金を使わされるんです。与えられたコンテンツよりもっと上の楽しみをするためでなく。減点法なんですよね。
※ソシャゲがゲームとして本来の機能を果たすのはリリースから1か月前後だと個人的に思っています。この間なら本来のゲーム設計をそこそこ楽しめる場合も多いです。
「できる」を増やすから、「できない」を減らすへのシフト
私は、ゲームというエンタメが面白くあるためには前者が必須であると思っています。しかし、基本無料ゲームはどちらかというと逆ベクトルで年々進んでいると感じられます。ここ数年にリリースされた新しいオンラインゲームがことごとく、あっという間に話題にすら上らなくなるのは、そういうところだと思います。まあ、そのちょっと前には、韓国における補助金によって、他ゲームの劣化コピーのような駄作が連発され、すぐ消えていった時代もありましたが…。
近年はアラドも、称号、クリーチャー、オーラなどの課金アイテムを用意して初めてそれなりの強さになる、という傾向は強いです。ただし、ソシャゲのように短期スパンで大金をはたいてガチャを回す必要はないし、クリアするだけなら最強ではない課金アイテムでも全く問題ないので、まだまだマシなほうです。キャラの強さにおけるゲーム内努力の割合が減ったり、職差が努力量に勝ってしまう例が多いのは残念なところはありますが。ちょっと前までは、弱かったプレイヤーが装備堀りを頑張った結果いきなりものすごく強くなって、主力として活躍する感動なんかもあったんですけどそういうのがなくなったのでね。
ToSも近年は自動マッチングの参加資格とか、デバフ特化クラスの実質的な消去とか、平等化を意識したアップデートが非常に目立ちます。あやうくヒーラーも削除されかけましたが何とか生き残りましたね。一部縄跳びギミックが強いダンジョンも見受けられます。正直ToSはコンテンツアップデートのゲームバランスがおかしな方向に偏っているのもあるので、基本システムがすごく面白いのに人を誘えないゲームになってるのはちょっと残念です。まあそれがIMCなんですけど。個人的にはR9~R10がすごく自由度もバランスも絶妙だった。
番外:メイプルストーリー2の例
メイプル2の某時計BOSS実装なんかも、当時のバランスとしてはなかなかシビアだったことから多くの脱落者を生んだりしましたね。メイプル2の例はちょっと特殊で、重課金は別に必須ではなかったのですが、いきなり何段も上の階段に飛び上がらなければならなくなったため、結果的に人口を減らしてしまいました。これは単なるアップデートスケジュールのミスだと思います。
あとメイプル2は、課金するメリットがあまりに薄すぎて、人口が減った分の売り上げを廃プレイヤーから確保できずに終了になってしまったのだと個人的には考えています。重課金を強いないのは良いことですが、意味がなさすぎるのも問題ということですね。世界の幅は広かったのに、それぞれのコンテンツがパッとしなくて、色々と惜しい作品だったとは思っています。
基本無料ゲームに平等や調和はナンセンス?
こと対人ゲーならともかく、PvEを基本としたゲームにおいて、しかも基本無料とか言う格差が当たり前に生まれるシステムにおいて、ゲームバランスを極度に意識したり、プレイ権を極度に平等化したりするのはナンセンスなのではないかとは、つくづく思います。
昔の家庭用ゲームで人気のあったものも、冷静に考えたら雑すぎる仕様やバグ、裏技など多々あったりします。強弱やロール、個々人の強さに差があることを是として、簡単にクリアされたら悔しいのではなくある程度自由に遊ばせる、という発想が結果的に利益を生むんじゃないかなとは思います。あくまでゲームとして売りたいならの話ですけど(ソシャゲはゲームとはちょっと違うので)。
クリアがどれだけ楽でも、重課金する人はするんですよ。むしろクリアより上の楽しみがあるからこそたくさん課金したくなるっていう場合もあったりします。例えば家庭用ゲーム1本に対して3万円払いますか? みんな同じ強さの人権を得るために3万円必要なら、実質やってることは同じですよね。
ここでは仮に3万円としましたが、実際にはそんなもんじゃないゲームやアプリが非常に多いです。そしてそういう「みんな同じことをやらせる」基本無料ゲームって、プレイ内容は家庭用よりイマイチになりがち。何しろ課金で得る強さに対してバランスを無理やり働かせるために、強制ギミックを用意しているのですから。ぼったくりで内容が薄いゲームには愛想をつかすのも当然のことだとは思います(ぼったくりじゃないゲームもイマイチってパターンはさておいて)。
家庭用ゲームの変化
では家庭用パッケージはどうかというと、近年はゲーム機の進化により、リリースした後も無料アップデートやバグフィックスがあって当たり前みたいな風潮が出てきています。バランスパッチも当たり前だし、定額で売ってるものに対するアフターケアがコスト的に割に合わなくなってるだろうなと思わされます。そのせいか基本的な内容が薄くなりがちなあって思ったり。
これはこれで基本無料ゲームの傾向に寄ってきてるところはあると思います。ある種の芸術作品ともいえるレベルのゲームを近年見かけることがなくなってるのも、基礎開発費の増大や納期の問題とかもありつつ、そういうとこは関係なくはないのでは。
あとは無意味にシステムを複雑化する風潮。面白味だけを追求したらできる限り単純なほうが面白いのがゲームってとこあるし、でもそういうとこで個性出さないと差別化は難しいって話にもなるしダブルバインドにかかってそう。逆に本来のRPGのウリはもっと単純なコトだったんだなって改めてわかるんですよね。ドラクエとかシステム的には単純きわまりなかったですからね。でも、今あれをプレイしてもまあまあ面白いとは思うんですよ。
といった感じで、近年のオンラインゲームの下火化の原因の1つと思われる、平等化&自由度の低下&重課金ベース化について改めてまとめてみました。
結局、社会のあらゆる物事が「カネ」またはそれに互換性のある何かで動く度合いが年々高まってきてることの象徴でもあります。そろそろ欧米主体の金融資本主義にも限界は近づいてきてると思うんですけどね。
また、平等という概念は常々他人を殴ったり、頭を押さえつけたりするために使用されがちで、結果誰も得しなかったり、あるいは一部の人間の利権の隠れ蓑目的に過ぎなかったりするってのはどの世界でも変わらない気がします。
まあ、ソシャゲについては最初から別ジャンルの媒体(ゲームとは非なるもの)なので特に何もいうことはありません。しいて言えば明らかにただのソシャゲなのに自称MMOはやめてほしい。検索を妨害されます。
あと蛇足ですが、クロノトリガーをはじめとする過去の超大作、芸術レベルの作品って、本当に幸せなゲームであり幸せな開発環境であったんだなあとつくづく思います。