歴史と現代の交差点:戦後から現代日本へ② 財閥解体から高度経済成長へ

半端に終わった財閥解体
 日本の民主化政策としての財閥解体は結果として骨抜きに終わりました。しかし、戦前の財閥がそのまま残ったというわけでもなかったのです。

 まず、子会社の株を所有して支配を行う持株会社の解体が行われました。同時に財閥一族の企業支配からの排除も行われたため、初期の民主化政策のうちに、財閥の要の解体は実際に進行していたのです。

 しかし、財閥傘下にあった各企業はそのまま残ってしまいました。これらの企業のつながりも過度経済力集中排除法によって解体されようとしていたのですが、ウォール街の主導による逆コースが進み、中断されたのです。この辺りは日本企業側もしたたかであったという評価もありますが、一概にどちらが正しくてどちらが間違っているというよりは「両方」であったと考えるほうが無難かもしれません。

 その結果、明確な支配者のいない、でもつながっている企業群が残るというちぐはぐな状態が生まれてしまいました。戦後の財閥は、個々の「元子会社」たちが相互に株を持ち合い、互いに抑止力を持たない企業共同体となったのです。

 その結果、株主による経営の監視や、上位者による支配もないため、それぞれの企業は責任を問われることがなくなりました。個々の企業には経営者としての社長は存在しますが、全体のリーダーシップをとる人がいなくなってしまったのです。独占禁止法などによって合議制が強制されたため、新たなリーダーを選出することもできません。その結果、無責任な経営者による企業の私物化が横行しました。

 これらの動きについてアメリカ政府が問題としなかったのは、前の記事でも述べたように、政府要員がそもそもウォール街の財界のリーダーと同一人物であったため、当人たちにメリットのある方策はあえて座視したという形になっています。彼らは、資本家という中枢、リーダーを失った日本の財界をコントロールして利益を得ようと図っていたのではないかともいわれています。

 

ドッジ・ラインは大成功だった?
 1949年、ジョセフ・ドッジによって立案、遂行された、日本経済の自立と安定を目的とする緊縮財政策ドッジ・ライン(ドッジ・プラン)。結果として日本が国際市場への復帰を可能とした功績の裏面で、デフレの進行による不況が深刻化し、企業の倒産や失業者が激増したことは学校教育レベルの知識として教えられています。

 しかし、この不況(安定恐慌)自体が、米国にとっての意図に含まれていたという話があります。アメリカの国家安全保障会議における当時の報告に、以下のような内容があったそうです。

日本の復興計画が成功するかどうかは
日本人が骨身を惜しまず働き、
国内で耐乏生活をすることを通して、生産を拡大し、
輸出を高い水準で維持できるかどうかにかかっている。
このことを我々は日本政府に明確にわからせねばならない。

 このように、安価で優秀な労働力として日本人を利用しようとするのがウォール街の住人たちの意図であったとするなら、この不況すら予測の範囲内、大成功であったということになります。現代のアジア諸国で行われている工場の進出と安価な労働力確保。あのような現象を、日本という自家薬籠中の国で行えるなら、彼らにとっては多大なメリットがあったと想像するのは難しくありません。そのためドッジは、ただただインフレを抑制し、経済の安定化することのみに重点を置いた政策を行ったというのです。

 そもそも、戦後はじめのインフレというのは単純に「物資がない」。つまり戦争によって産業が壊滅したために物資の供給が断たれていことが原因でした(復興金融金庫によるお金のばらまきが原因という通説もありますが、これは復興のためには一概に悪い政策でなかったこと、また供給さえ回復すればインフレは解消されるので主たる原因でもなかったことが言われています)。なので、軍需工場に転用されていた民間の工場群が本来の用途を取り戻し、生産活動を取り戻し、枯渇していた原材料、例えば重油などの供給によって、ある程度緩和されることが目に見えていたインフレだったのです。現にアメリカの援助によって復興しつつあったのですから。

 しかし、結果として日本とアメリカは「待ちきれずに安易に金融引き締めの方向に走った」ということになります。この動機の解釈として、先ほどの国家安全保障会議における提言のような内容が裏の理由だったのではないか、と言われているわけです。

 

 ところで、このとき原材料の確保に大きな役割を果たしたのが、日本政府の行った傾斜生産方式だったそうです。この政策自体は全くといっていいほど役に立たなかったのですが、アメリカからの物資援助を引き出す決め手となり、結果的に日本の復興の助けとなりました(元々の目的自体がそれだったともいいます)。

 

高度経済成長への道
 その後、日本は急激な経済成長を遂げていきました。まず最初のきっかけが朝鮮戦争での軍事産業に関する需要、朝鮮特需であることは学校教育でも教えられたとおりです。アメリカは日本に多額の軍事費を投下しました。またその裏面で米財界の人々は、ドッジラインによって鎮静化していた日本の産業へ多額の投資も行い、多大な利益を上げます。しかしながら、一時的な景気高揚であればその後再び不況に陥ってもおかしくない、というか失速する方が当たり前です。それなのに、日本が高度経済成長への道をまっしぐらに走っていくこととなりました。その大きな要因には以下のようなものがあると考えられます。

戦後経済の急速な発展の要因
1.とめどない軍需
2.1ドル=360円の固定為替相場
3.日本政府が「余計な事」をしなかった
4.日本人の勤勉さが尋常でなかった

以下、それぞれについて述べていきます。

 

とめどない軍需
 アメリカは朝鮮戦争以降も、キューバやベトナム、カンボジアなどへ次々と派兵し、ひたすら戦争を行っています。それぞれの背景についてここで細かく考察するつもりはありませんが、アジアや中東方面における戦争のための軍需を、日本の工場に委託したという点が極めて大きな要因となっています。

 兵器の製造や修理のみでなくテントや化学製品、毛布の生産や造船所の使用など、さまざまな物資とサービスの調達のため、アメリカは莫大な費用を日本に投下し続けました。残酷な話ではありますが、戦争ほど儲かる商売はないのです。そのため、アメリカの軍需を大々的に受け入れた日本が経済成長を続けるのは自明の理であったといえます。

 こうした軍需によって、戦後すぐには瀕死状態であった日本の経済が息を吹き返したどころか、急激な成長を遂げていきました。

 

1ドル=360円の固定為替相場
 1949年、1ドルを360円とする固定為替相場が制定されました。ジョセフ=ドッジと池田勇人大蔵大臣の会談によって調整されたといいます。その後、1971年に1ドル308円になり、1973年に変動相場制へ移行するまではこの相場が続くことになります。

 当時日本は復興途上であったため、360円という相場は妥当どころかむしろ不安もある値だったようです。しかし結果として朝鮮特需以降、日本経済が急速に発展することになりました。そのため、「変動相場制だったら適正となる円相場」と比べてあまりに極端に円安の状態で長年推移することとなったのです。

 その結果どうなるかというと、日本企業は輸出によって大幅な利益を得ることができました。米ドルで決済した商品の対価を円にしたとき、円安であればあるほど利益が大きくなるのは周知の事実です。ちなみに1970年における適正なレートは1ドル140円程度だったと試算されています。いかに日本の輸出産業が暴利といっても良い利益を得られていたかがわかります。

 

固定相場制について
 ちなみに、固定為替相場制とは、政府が為替介入しないことにより相場が維持されるシステムというわけではありません。むしろ力で為替介入していくことで無理やり360円を維持するシステムなのです。これは多くの人にとって盲点だと思います。要するに、360円より円高になりそうになったら政府が全力で円売り、ドル買い介入を行う、ということです。そのため、固定相場制では金融政策による景気や物価の調整ができないというデメリットがあります。

国際金融のトリレンマ
1.自由な資本移動
2.独立した金融政策
3.固定為替相場
3つ同時には成立しない。

 上記のうち2つまでは同時に成立しますが、3つ同時に実現することができません。
これを国際金融のトリレンマといいます。例えばこの時の日本は資本主義社会でしたので、自由な資本移動は必須です。また固定為替相場であることも規定事実だったので、独立した金融政策は不可能、ということですね。

 

日本政府が「余計な事」をしなかった
 1960年に打ち出された、池田勇人内閣の所得倍増計画というキーワードはきわめてセンセーショナルで、教科書内容の中でもインパクトのあるワードだったのではないでしょうか。しかし、何か特別な政策を行ったから景気が高揚したというわけではありませんでした。

 景気が悪くなったら政策金利(公定歩合)を下げるなどといった、極めてテンプレート的な対策を時々行っただけだったのです。逆に、経済が過熱しているから抑制しよう、という余計な発想を行っていたら、日本が先進国としての立場を確立することはできなかったかもしれません。

 金融財政政策というものは投資と同じで、まず基本に忠実に行うことがまず大切なのだなとふと思ったりしました(アクティブ投資がインデックス投資にトータルでは勝てない話に通じるものを感じます)。その意味で、池田内閣が所得倍増を志したというその決断自体が上策であった、とはいえそうです。

 

日本人の勤勉さが尋常でなかった
 アメリカの国家安全保障会議が行った報告を覚えているでしょうか。「日本の復興計画が成功するかどうかは 日本人が骨身を惜しまず働き、 国内で耐乏生活をすることを通して、生産を拡大し、 輸出を高い水準で維持できるかどうかにかかっている。」というものでしたね。

 実際のところ、日本人はアメリカ人の想像を絶するほど「もともと勤勉だった」のではないかと思います。当時の日本人が海外の人から、エコノミックアニマルと呼ばれたことは有名ですね。また、日本人が外国人と比べて労働にリソースを割きすぎていることはたびたび言われます。こうした「骨身を惜しまず働く」日本人の在り方が、アメリカ人の想像を絶するほどであり、そこにものづくりに対するこだわりや技術革新が加わることで成長を加速させた、という側面は1つの要因であったと考えられます。

 

GHQの統治の意義
 前の記事やこの記事の冒頭で「半端に終わった」としてまとめた民主化政策や財閥解体ですが、戦後新たに台頭し、現在では超大手となっている企業の発展に対する貢献度は高かったということはできると思います。軍国主義における統制下や、財閥の支配下における独占経済では自由なものづくりは到底行えません。GHQのテコ入れがなくてもこれらの制度が崩壊した可能性はないとはいえませんが、結果論として日本の経済発展に対して一定の役割は果たせたということができます。

 

政府官庁の影響は薄い
 戦後日本が設けた経済安定本部や、GHQが展開した経済安定9原則は、上記にまとめた諸々の理由と比べると全く役に立ちませんでした。学校教育ではこうした「原因と過程と結果のすり替え」が多々あるので鵜呑みにするのは危険なのです。政府官庁が行う成長戦略などのテコ入れは、実質的な効果は望めないハリボテばかりであった、というのが大半のようです。むしろ邪魔しないだけマシだったといった方が良いですね。バブル崩壊以降の失われた20年とか完全に人災続きだったので。

 

 通産省の業界指導とかも、実際には全く役に立ちませんでした。日本株式会社は都市伝説だったのです。例えば成功した企業の後追いで指導をしたつもりになったり、その成功が自分たちのおかげであると喧伝したりといった虚名が後世有名になりすぎただけ、というところが真相のようです。

 要は、高度経済成長期の日本の産業はすでに一流レベルには達していたので、民間企業の自主的な経済成長の邪魔をしないことが最大の成長要因であった、ということができます。政府官庁の指導が役に立つのは、ほんの芽生え程度の産業をしっかり根付かせる場合だけでしょう。


結論として、戦後日本の急速な発展は、

1.アメリカからの止まらない軍需によってスタートダッシュを切り
2.1ドル360円の極めて有利な固定相場による輸出産業によって加速し
3.余計な抑制政策をせず高度成長を意図した日本政府のもと
4.日本人の勤勉さとものづくりへのこだわりも相まってさらに驀進した

といったところが大きな要因だと考えられます。