三国志人物列伝:暴君・孫晧と彼を生んだもの

 ちょっとしたプチリクがあったので、敢えてこの人物について正史『三国志』からまとめてみます。皇帝の事績となると、国家全体の年表になりがちになってしまうので、極力個人の関わる部分のみを、できるだけ文章量が少なくなるように抽出しています。


孫晧(字は元宗)は孫権の孫で、孫和の長男。三国時代の呉における最後の皇帝である。

 

皇帝即位
 時の皇帝・孫休が即位すると、孫晧は烏程侯に封ぜられ、任地へ向かった。ある平民が彼の人相を占い、必ず高貴な身分になると言われたという。孫晧はこの占いを喜びつつも、他人には洩らさなかった。
※他人には洩らさなかった占いの内容が史書にのこる、というのが中国史の面白いところです。この場合は即位後に側近などに洩らしたのかもしれませんが。

 孫休が逝去したころ、蜀は滅亡し、交州では反乱がおきるなど内憂外患の情勢のため、次期皇帝は立派な人物を迎えたいとの風潮が強かった。万彧という廷臣はかつて烏程の県令であったことがあり、孫晧と交友があった。そこで彼は「孫晧には才知と見識があり、孫策にも劣らない。さらに学問を好み法度を遵守しているとほめたたえ、たびたび丞相(宰相)の濮陽興や、先代の権臣であった左将軍の張布に推薦した。その結果、濮陽興らは先代の皇后に了解を取った上で孫晧を即位させた。西暦264年、孫晧は23歳。

 

即位と豹変
 即位後、孫晧は父の孫和に文皇帝の称号を贈り(つまり生前は即位していなかったものの皇帝扱いとした)、母の何氏を太后とした。

 孫晧は即位した当初、官の倉庫を開放して貧乏な人々を救い、宮女たちを解放し、妻のない者たちに添わせてやり、御苑の鳥獣を逃がしてやるなど思いやりのある政治を行い、明君であると称えられた。

 しかし次第に豹変し、粗暴で驕慢、執念深く、酒や女色を好んで臣民を失望させた。濮陽興や張布も後悔したが時すでに遅く、彼らのそのような言動を讒言するのもが現れた末孫晧は2人を誅殺してしまった(別伝によると讒言したのは万彧)。また後には、先代の皇后であった朱氏を殺害し、孫休の息子たちを幽閉して年長の者を殺害するなどの行為に及んだ。その他、讒言により殺害される廷臣も続出した。

 

乱れる呉国内
 267年夏、新たに宮殿を建設し、昭明宮と名付けた(三国志では司馬昭の名を避け「顕明宮」と記される)。その建設の際、二千石(郡守クラス)以下の官吏はみな山中に入って材木伐採の監督に当たらせ、多くの墳墓を壊して御苑を作り、工芸の巧みを凝らした築山や楼観などを建て、巨額の費用を投入した。このとき左丞相であった陸凱(陸遜の親族)は必死に諫めたが、聞き入れられなかった。ちなみに孫晧の即位を推薦した万彧はこのとき右丞相であった。

 かねてよりの懸案事項であった交州は虞̪汜らの活躍により平定。また西陵の督であった歩闡の寝返りを陸抗が鎮圧した。しかしそのころ、右丞相の万彧は譴責を受けて憂死。また何定という廷臣の悪事が発覚して誅殺されたが、このとき彼の悪事がかつて誅殺された張布に似ている、ということから、死んだ何定の名を何布と改めさせた。

※死者の名を改名、しかもかつて誅殺した別の人物になぞらえるという行為が、孫晧の偏執的な精神状態を物語っています。ただし、何定については讒言や汚職を度々行っていた人物であることは確かの模様。

 これ以外にも、さまざまな廷臣による讒言合戦が繰り広げられ、孫晧もあっさりそれらを誅殺など処罰してしまうことから呉の朝廷は乱れに乱れていたことが見て取れます。あまりに多すぎて1件1件取り上げるのもバカらしいほどのありさまです。讒言が横行して無実の者が殺される→讒言していた人物の悪事がバレて殺される、というパターンがお決まりにも見えてきます。改元や大赦が多くみられるのも、国家体制の不安定さを物語っていると考えられます。※

 孫晧は宴会を行う際、いつも皆を酔いつぶれるまで飲ませるのがお決まりだったが、黄門郎の官職にある者10人を選んで過ちを取り締まる役割として、彼らには一滴も飲ませなかった。宴の後、臣下たちの失態を取り上げたり、不満そうな顔つきをしたもの、妄言(孫晧にとっての、ということでしょう)を吐いたものなどに罰を与え、ひどいものは即座に厳刑に処した。決められた量を飲めない人も罰せられた。

 このような孫晧の行状に対して、廷臣たちはすっかり見放してしまい、彼のために力を尽くそうという者はいなくなった。 

 

呉帝国の瓦解
 280年、晋(魏にとってかわった司馬氏の王朝)の王濬らは益州(蜀)の地から船で長江を下り、呉へ侵攻した。すでに戦意を持っていなかった呉軍はあっという間に打ち破られ、防ごうとする者はいなかった(名将・陸抗は既に病死していた)。将軍の陶濬は水軍で晋軍を迎撃すれば勝ち目があると進言、出陣準備をしたが、出発日の前夜に兵卒はことごとく逃亡してしまい、戦にならなかった。陸路からも王渾や司馬伷らが率いる晋軍が進撃し、呉の運命は風前の灯となった。

 孫晧の暴虐な行いをさらに加速させていた寵臣に岑婚という者がいた。呉の壊滅を前にして廷臣は孫晧に詰め寄り、この状態を招いたのは岑婚のせいであるとして処刑を求めた。孫晧はいったんは認めたものの、後で取り消そうとしたが、既に岑婚は殺害された後であった。

 このような事態を受け、孫晧は晋への降伏を決意。呉都に進軍してきた王濬は彼の降伏を認め、晋の都に送還した。孫晧は帰命侯に封ぜられ、生活を保障されて余生を送った。息子たちは朝廷の役職につくこととなった。その後284年、または283年の末に孫晧は死去。42歳であった。

 

逸話から見る人物像
・279年、広州の合浦太守の私兵隊長であった郭馬が、主の死後に兵団を解散させられそうになったため(離れ離れになることを拒んで)反乱を起こした。かねてから呉の預言者に「呉の滅亡のとき、その兵は南の辺境におこる」と言われていたこともあり、孫晧はひどくおびえ、「これは天が呉を亡ぼそうとしておるのだ」といった。
→孫晧は皇帝になることを人相で占ってもらったこともあり、占いを信じるフシはあったかもしれません。しかし、とはいっても、「天が呉を亡ぼす」などという表現をただの暴君や暗君が行うかというと不思議なものを感じます。本当に愚かであるなら、このようなときは都合良く「妄言を言った」とのことで処罰したりするのが理性を欠いた暴君にありがちだからです。この辺りにも、彼の即位後の行為がただの愚かさによるものではなかったのではないか、と思えたりもするのです。

・呉の滅亡を目前にした孫晧は、舅の何植に手紙を送った。その手紙には「不徳なる私が帝位を継ぐことになり、民衆たちの心を懐け寄せることもできず、間違いや失敗を重ねて、天のおぼしめしにも背きました(中略)天が呉を亡ぼされるのではありません。これは私が自ら招いたことなのです」といった自己を責める表現が含まれていた。

・また群臣にも書簡を送り、その中には「私は不徳の身をもって先帝からの位を次、帝位にあること暦年にわたったのであるが、政治教化は正しい道にもとり、その結果、人々は久しく塗炭の苦しみの中に合って、ついには心を決めて有徳のもの(晋王朝)に生命をあずけようとするまでにいたった(中略)慚愧の念は山のごとく、死んでもその罪をあがないきれるものではない。(中略)皇宮に住まいするようになって以来、しばしば重い病にかかり、はかりごとにたいする配慮が不十分で、意図するところにも的をはずし、政治をだめにすることばかりが多かった。小人たちをそばに近づけたがために残虐な行いが助長され、その害毒は広くひろがって、忠良な者たちが被害を射受けることとなった。愚昧にして私にはそのことがわからず、彼らの、君臣の間をへだてる計略にのせられて、諸君たちには申し訳ないことをしてきた。事態はもう取り返しのつかぬところまで来ており、覆水を盆に返すことはできない。(以下、主を乗り換えて活躍した歴史上の名臣をとりあげ)、乱れた国を去り収まった朝廷に仕えるのは、不忠ではないのである。王朝が改まったからといって、みずからの志を十分に伸ばさぬことがあってはならない。諸君の今後の一層の努力と発展とを祝し、自愛を祈る。これだけが私の申したいことだ。これで筆を置く。」といった形で、過去の過ちを懺悔し、廷臣たちに晋王朝へ仕官して活躍することを進める文章を贈っている。
→とてもとても、根っから愚鈍である人間が発することができる言葉とは思えません。確信犯であったかどうかはさておき、彼の治世における血みどろの権力闘争や無益な殺生、さまざまな浪費などは、彼自身にとっても正常なものではないという自覚があったようです。

 

・孫晧は張布の娘を寵愛し、美人(後宮での位)とした。あるとき孫晧は彼女に対し、「おまえの父親はどこにいるのか」と尋ねると、彼女は「悪者に殺されました」と答えた(先述のとおり、張布は孫晧に誅殺された)。孫晧はひどく腹を立て、彼女を撲殺してしまった。しかし後に孫晧は張美人のことが忘れられなくなり、上手な工人に命じて彼女に似せた木彫りの人形を作らせ、常に座の傍らに置いていた。ある時孫晧は側近に、張布に他にも娘がいるのかをきくと、姉がもとの衛尉の息子・馮純に嫁いでいるという。すると孫晧は馮純の妻を奪って後宮に迎え入れて寵愛し、昼夜の別なくともに過ごした。夫人が亡くなると孫晧は大いに悲しみ、多額の費用をかけ非常に手厚く弔った。そして葬儀が終わると後宮に引きこもって喪に服し、半年も外に姿を見せなかった。みやこの人々は、豪華な葬儀の後に皇帝が姿を見せなくなったため孫晧が死んだものと勘違いした。(そこからデマを信じた者による反乱がおきたりといったトラブルも発生した。)
※上記は妃嬪伝第五[孫和何姫伝]注『江表伝』によるものだが、「夫人が亡くなった後孫晧が後宮に数か月引きこもり、死んだと勘違いされた」話が別枠で呉主五子伝[孫奮伝]にある。このときは死んだ夫人が「王夫人」となっており、こちらの逸話の方が正しい可能性がある。その場合、張布の娘の話が全て虚構なのか、一部は史実なのかは不明瞭となる。
→逸話の詳細に齟齬が見受けられるものの、孫晧の情愛の深さと精神の不安定さが見て取れるような逸話と思えます。

 

・孫晧は、他人が自分を見つめることを好まず、群臣たちが御前に出る際も、誰も真正面から孫晧を見返したりする者はいなかった。陸凱のみ「不慮の事態が起こった時に馳せ参ずる所が分からなくなる」と言ったところ、陸凱が自分の方を見ることを許した。
→他人と目を合わせることができない、ということでしょう。何らかのメンタル的な要素があったと思われます。

※ところで、陸凱という人物は孫晧をたびたび諫め、時にその内容は引用もはばかるほどの長文となっています。史書に残っているだけでもあまりに頻繁なので驚くほどです。また、何定のような讒言者に対しても容赦なく手厳しい言葉を浴びせたため、何定はたびたび孫晧にこれを讒言しましたが、最終的に陸凱は天寿を全うします。とはいえ、孫晧は彼を内心煙たがっていたものの、重臣であること、法で処罰するには隙がなさ過ぎたこと、陸一族の軍事力を恐れたことから処罰が難しかっただけのようで、陸凱の死後に一族は辺境へ移住させられてしまいました。

※また、三国志以外の書物では、降伏後に晋の首脳に対してキレのある会話で相手を慌てさせている逸話も残されているので、やはり本来は頭の良い人物だったのでは、と考えられる材料になっています。(以下Wikipediaより引用)
 弁論が得意であった。降伏後の逸話として、司馬炎は孫晧に「朕はこの席を用意して、長いこと卿を待っていたぞ」と言った。それに対して孫晧は「臣も南方で、席を用意して陛下をお待ちしておりました」と答えた。また別の逸話として、賈充が孫晧に、「聞くところによれば、常々人の眼を伺ったり、顔の皮を剥いだりしたとか。これはいかなる刑か?」。孫晧は賈充の顔をじっと眺めてから、「主を弑し、主に不忠を働く奴ばらへの見せしめですよ」と答えたという。昔、賈充は曹髦を殺した。そのため賈充は恥じいり黙ったが、孫晧の表情は何の変化もなかった

 

・人の眼をえぐったり顔の皮をはいだりという残虐行為もあった(らしい)
→この手の逸話は真偽もさだかとはいいがたいですが、もし事実なら知的な側面とのアンバランスさが際立ち、より一層精神的な異常を感じます。

 

父・孫和にまつわる話
 ここから話は遡ります。孫晧の父である孫和は孫権の三男でしたが、兄である孫登と孫慮がともに早死にしたことから太子となりました。学問を好み、才能のある人物と交わって名声があったようです。

 しかしながら、弟の孫覇を擁立して次期皇帝にしようとする廷臣や夫人たちによる権力闘争が発生し、讒言の嵐によって孫和に近しい廷臣たちは次々と死に追いやられ、有名な陸遜もこの際に憤死しています。この「二宮の変」については詳細に記述すると本記事よりも長いものとなってしまうほど長引き、かつ混乱をもたらした事件であるため、大枠のみの省略としています。

 すでに老いていた孫権はこの混乱に収拾をつけることができず、孫和は廃嫡、孫覇は自殺という形の両成敗でこの問題に片を付け、新たに末子の孫亮を太子としました。孫和は幽閉されたのち、南陽王とされて都から遠い長沙の地にうつされました。

 孫権は孫覇派による讒言などの真相がわかると孫和を許そうとしますが、孫覇につながっていた全公主や、孫和の廃嫡による決着を推進した孫峻らに反対されて断念します。

 孫権の死後、孫和に同乗していた諸葛恪が国政をつかさどるようになり、孫和の地位を回復しようとしますが、その前に孫峻に殺害されてしまいます。孫峻が実権を握ると、孫和をさらに強制移住させた上に自殺を命じてしまいました。

 

 こうした父親に対する仕打ちをまざまざと見せつけられて生活していたのが、孫晧の子供時代であったわけです。ここから何らかの精神的影響を受けていないとは考えづらいため、皇帝即位後の暴政にも影響を与えたと見られます。

 では具体的にどのような精神状態であったか、となると個人の心理は測りがたいですが、単純に精神的不安定さから行状が悪くなったということもありえますし、うがった見方をすると「父親を迫害した、または守れなかった王朝」に対する復讐という捉え方もできないわけではありません。

 いずれにせよ、即位後に父母を皇帝・皇后として扱う処置を行ったり、孫覇の関係者に対して処罰を行ったりした行為には明らかに父母への強い思いが感じ取られます。

 

二宮の変が残した影響
 孫和、孫覇の処罰と孫亮の即位によって呉に平穏がもたらされたわけではありません。孫権死後に国政を任された諸葛恪は、魏への出兵に失敗したのち、諸葛恪とともに孫権から後事を託されていた孫峻に暗殺されます。孫峻はその後国政をつかさどりますが、才気が走りすぎて失敗もあった諸葛恪に比べても能力が劣り、さらに多くの人々を処刑するなどの専横行為が激しかったため周囲から恨まれました。

 孫峻の死後、いとこの孫綝が実権を掌握しますが、彼も孫峻同様の専横を行い、反対派との権力闘争やその処刑もたびたび発生しました。その後皇帝の孫亮が成長し、政治を行うようになると孫綝はたびたび問責を受けるようになり、最終的に孫亮は孫綝暗殺計画を練ります。しかし計画が漏れて失敗し、孫綝は孫亮を廃位、新たに孫休を皇帝に立てます。孫休即位後も孫綝の行いは変わりませんでしたが、孫亮よりさらに慎重深かった孫休は綿密な計画を練り、結果的に孫綝の誅殺に成功します。

 孫休は学問好きで理性的な皇帝であったようですが、最終的にはに若いころから交友があった丞相・濮陽興と、若いころの恩人であった張布に国政をゆだねて学問に没頭します。しかしこの二人もあまり良質な人物ではなかったようで、とくに張布は素行の悪さでも有名だったようです。なお、濮陽興は孫休から息子の孫𩅦そんわんを跡継ぎにするように頼まれていたところを、それを反故にして孫晧を迎えたといわれています。

 このように、二宮の変は呉国の構成員たちの中に消し難い不和を残したうえに、その後も度重なる権力闘争が続き、さらに国政をつかさどる者たちも代々とても有能とは言い難い面々が続いたという点で、極めて大きな傷跡を残したということができます。文章としてはサラっと流しましたが、反乱や権力闘争が頻繁に起き、それによって呉の主要な重臣たちが次々と倒れていって、全体的な人材不足も著しくなっていきます。

 このような状態であると、孫晧が臣下に対して残した書簡における以下の言葉が思い起こされます。「小人たちをそばに近づけたがために残虐な行いが助長され、その害毒は広くひろがって、忠良な者たちが被害を射受けることとなった。愚昧にして私にはそのことがわからず、彼らの、君臣の間をへだてる計略にのせられて、諸君たちには申し訳ないことをしてきた。」。

 孫晧自身が残虐であることの前に、孫峻、孫綝の治世下でも続いた廷臣どうしの殺し合いが珍しくもないという状態、讒言が人を殺すことが当たり前の風潮、権力者が好き放題やれてしまう政治状況があったということです。このような呉の朝廷そのものが持つギスギスとした空気も、孫晧の行状に影響を与えていないとは言い切れないのではないでしょうか。

 もちろん、孫晧も当初任命した有能な廷臣たちを次々と排斥していったのは事実なので、「即位した時点で詰んでいた」とはっきり言いきるのは難しいです。ただし、蜀が滅びて晋が巨大帝国として眼前を覆っていた情勢も、理性的、大局的に見れば極めて悲観的だったと考えざるを得ない点もあったかもしれません。


 つまりのところ、孫晧の暴政については、生まれ育ちによる精神的な影響、二宮の変による呉国内の組織や人間関係に残った傷跡、さらに圧倒的な国力差を眼前にした絶望的な国際情勢という観点が総合的に影響したのではないかと考えられます。

 また、即位時の孫晧の若さ、それまで宮廷と遠い地域で過ごしていた環境を考えると、宮廷のおぞましい権力闘争がいかなるものであるかを知らず、また廷臣たちがそれぞれどのような人物であったかも知らず(誰が信頼に足るのか見分けるのは難しい)、佞臣たちに利用されていたという側面も確かにあったかもしれません。さらに言えば、宮廷で様々な資料や人々の伝聞から情報を得て、父親を陥れた者、父親を守り切れなかった者たちの行いを知り、そこから復讐心を狩り立てられた可能性も否定はできないのではないかと思います。またこのような状況に放り込まれたら、本来正常だった人でも精神を病んで奇行に走る可能性も否定はできませんね。