東洋史戦争目録:城濮の戦い

東洋史においてインパクトの強い戦争を取り上げていくコーナー。
第1回は春秋時代に起きた城濮じょうぼくの戦いです。
時代背景についてはこちらを参照。



▲当時の勢力図。ただし呉越はこの記事の年代にはまだ台頭していない。楚王も当時は荘王の祖父・成王。

盟主不在の中華諸侯
 紀元前637年、晋の公子・重耳ちょうじ秦のぼくの後援を受けて帰国。晋候に即位しました(文公)。その後、重耳は周王室の内乱を鎮めて周のじょう王を助け、天下に名を知らしめます。

 斉の桓公以来、中華諸侯はこれといった盟主(覇者)を得ておらず、楚の成王による軍事的圧力をはねのけることができませんでした。宋の襄公が盟主たらんと楚に挑むものの、泓水おうすいの戦いで「宋襄の仁」の故事の通り正々堂々と戦いを挑み敗北。襄公はこのときの傷がもとで死亡し、成公が後を継ぎます。その結果、宋のみならず陳、蔡、鄭、許、さらにはのような由緒ある諸侯たちも楚の影響下におかれてしまいます。

 

宋の離反と楚の内情
 しかし、宋はかつて晋の文公の放浪時にもその一行を歓待したように親晋の風潮が強く、文公の活躍を見て楚から離反、晋と通交をはかります。
※ちなみに宋はかつての商(殷)の王族が封ぜられた国です。この後も中原諸国の多くが晋楚の間で右顧左眄うこさべんする中、ほぼ一貫して晋との友誼を貫いた律儀な国風は亡国の末裔だからなのだろうか。

 楚の成王は当然のごとく宋への侵攻を指示、軍勢を集めて閲兵を行います。まず前の令尹(宰相)で、名政治家であった子文が指揮をとりますが、朝食前にサラっと済ませ、一人も罰せずに終わりました。その後、新任の令尹である子玉(成得臣)が指揮を執ったところ終日かけてスパルタ稼働、7人を鞭打ちにして3人の耳に矢を突き通す刑を与えました。
※なお、中国における「鞭」は棒状の鈍器。なので鞭打ちは罪人を死なせる可能性もある刑罰です。

 楚の重臣たちは「良い後任の令尹を得た」と喜び、子文はそれを祝う宴会を開きます。しかしまだ若年であった蔿賈いかが現れましたが、彼は祝いを述べませんでした。子文にわけを問われるとこう言います(抜粋)。

「子玉は強気で礼を知らず、兵士を統率しきれません。三百輌以上の兵車(馬で引く戦車。またその乗員に歩卒を加えた軍勢のこと)を率いると、無事帰還することは難しいでしょう。」

 兵車一輌あたりの兵員は75人とも100人ともいわれます。非戦闘員を含めておおむね3万近くの軍をイメージしておけば問題ありません。しかし流石に若造1人の意見が戦略を左右することはなく、楚軍はそのまま宋の都を包囲します。

宋の救援依頼と晋軍の編成
 宋の大臣である公孫固は援軍を求める使者となり、包囲を潜り抜けて晋にたどり着き、事態を報告しました。すると晋の先しんはこう言います。

「(宋による)恩恵に報い、危難を救い、威信を立て、覇業を定めるときが、今こそやってきた。」

 恩恵とは、かつて重耳の流浪の際に厚遇してくれた数少ない国が宋で、飢餓に苦しんだ一行にとっての救いとなったからです。

 そして同じく晋の元老である孤偃こえん(あざなは子犯、通称は舅犯)は、楚に服従したばかりの曹と衛を責めれば楚軍を宋からおびき寄せることができる、と戦略を定めます。方針を決めた晋軍は閲兵式を行い、そこで軍の編成を定めました。

1.中軍の将:郤穀げきこく    2.中軍の佐:郤溱げきしん
3.上軍の将:孤毛こもう  4.上軍の佐:孤偃こえん
5.下軍の将:欒枝らんし  6.下軍の佐:先軫

※これ以降の晋は、軍権がそのまま卿(大臣)としての席次となります。序列は数字の若い順番で、中軍の将が正卿(宰相)となるわけです。

●郤穀はここにきて急遽抜擢された。郤氏は晋の有力貴族で、一族から重耳への謀反者が出たことにより政権から遠ざかっていた。
●孤毛は孤偃の兄で、上軍の将を弟から譲られた。
●欒枝は重耳帰国の際に国内から味方をした名族。
●先軫は孤偃や孤毛たちとともに重耳の流浪に同行していた古参の臣。
●重耳の御者は荀林父じゅんりんぽ車右しゃゆう魏犨ぎしゅうが就任した。車右とは貴族の兵車に同する武人で、貴族の兵車には主人を含め3人が乗車する。国君の御者や車右となることは最高の名誉の1つであった。なお、魏犨はのちの戦国時代に魏の国を建てる魏氏の先祖で、彼も重耳の流浪に同行していた。

――このような布陣で晋軍は衛国へ向け出陣しました。

 

恩に報い仇を報ずる
 晋軍は曹の国をまず攻めようとし、衛の首脳に道を借りる(軍勢を通らせてもらう)ことを依頼します。しかし衛人は許さなかったため、引き返して別の地点から渡河、五鹿ごろくの地を攻めとります。
※中国史において「河」とは黄河のみを指す固有名詞

 この五鹿という土地、実は重耳にとって因縁の地なのです。流浪の重耳一行は衛の君主に冷遇されてそのまま流浪、飢餓状態に陥り、この地域の住民に食を乞うたのですが、与えられたのは土くれ。これを見た重耳は怒って鞭で打とうとしますが、孤偃の反応は異なりました。「土(地)を手に入れるということは、国を賜る瑞祥です。」といい、その土を恭しく拝受しました(その住民はおそらく当惑したでしょう)。

 生死にかかわる危機においても、孤偃は重耳による天下を意識し続けたのです。まさに股肱の名臣でした。そんなわけで、晋軍がこのとき五鹿を占領したのはおそらく偶然ではないでしょう。

 この後、元帥の郤穀が死去してしまいます。後任には人物を重視した結果、下軍の佐であった先軫が急遽抜擢されました。対楚における緊急時であったがための人事といえます。下軍の佐には胥臣しょしんが任命されました、彼も流浪に付き従い、重耳の側近といえる人物でした。

 その後晋は、東方からやってきた斉の昭公と盟約を交わします。このとき衛の成公が参加を求めてきますが、晋は一顧だにせず断りました。以前に冷遇したり、この直前にも通行を拒絶したりという仇に報いる形となっています。成公は楚へ助けを求めようとしますが、衛の貴族たちはそれを望まず、何と自らの君主である成公を都から追放してしまいます。

 ちなみに、晋が攻めようとしている曹の共公も重耳の恨みを買っています。重耳は「一枚肋骨あばら」だったそうで、共公は好奇心で重耳の入浴を覗き見たそうです。また、共公は大夫(領地をもつ貴族)を三百人も取り立てていたそうで、これも後に晋にとがめられています。そんなことをすれば君主の力が弱まりそうなものですが、どうなのでしょうね。

 

囲魏救趙―前哨戦の始まり
 晋の侵攻に対し、魯は公子買を主将として衛を救援、楚もおそらく別動隊を派遣して救援軍としましたが、晋軍に勝つことができず引き上げました。魯の公はここで姑息な手を使います。公子買を誅殺し、晋に対しては「公子買が勝手にやった」と言い訳し、楚に対しては「救援に失敗して帰ってきたので誅殺した」と通告したわけです。ズルい。

 その後晋軍は曹に侵入しました。衛は放置したのか?となりますが、元々通過が目的だったうえに、国内が親晋でまとまりかけていることから様子を見たのでしょうね。曹への侵略でも逸話がいくつかあるのですが、大局には影響しないので割愛します。結果、曹の都は陥落し、晋の占領下におかれます。

 

飛び交う謀略の嵐
 ここにきて、宋が悲鳴を上げます。門尹般もんいんはんという人物を使者として再度救援を依頼。これに対して重耳は悩みます。「このまま放置すれば宋との縁は切れるし、包囲を解けと楚に言っても当然無駄。さらにこのまま楚軍を攻めても、同盟国の秦や斉はおそらく助けてくれないだろう。」と。

 すると先軫が一策を思いつきます。「宋からの贈り物を晋で受け取らずに斉と秦に贈り、包囲を解くように楚へ頼むよう依頼する。晋は曹の共公を逮捕し、曹と衛の田土を宋に与える。すると楚は与国である曹と衛の不利益を受け入れるわけにいかず、斉と秦の要求を許さないだろう。宋の贈り物を受け取り、楚の頑固さに憤慨すれば、斉と秦は対楚戦に参戦せずにはおれなくなるでしょう。」と。手の込んだ策ですが、人間心理をうまく突いています。強力な楚軍を相手にするのに、晋軍だけでは不安があったのも当然のことですし。

 しかし、この謀略はあわや失敗に終わりかけます。何と楚の成王はこの段階で宋から離脱して自国領の申に撤退。宋を包囲している子玉や、穀に駐屯している申叔時(衛の救援軍でしょうか?)に対して撤退を指示します。その理由を要約すると、「晋候は困難を嘗め尽くし、民心を知っており、天も彼を長生きさせて敵を取り除いてきた。徳があるものに歯向かうべきではない。」といった内容。実際、成王は流浪の重耳を優遇し、その人物を認めていたんですよね。

 これに対して子玉は反発しました。「なにも手柄を立てたしわけではありません。減らず口を叩き潰してやりたいのです。」と。蔿賈に言われたことを根に持っていたわけです。蔿賈は文武ともに優れた才能を持っていましたが、子玉に対する才気走った言動はかえって悪い結果を生んだのではないか、と思えてしまいます。正しいことを言うことが常に国のためになるわけではないかも。

 成王は怒り、援軍をあまり送りませんでした。しかし子玉も無闇に武力に訴えたわけではありません。宛春という者を使者として晋軍に贈り、「衛候を都に戻し、曹をもとどおりにすれば宋の包囲を解く」と言わせたのです。孤偃はこれを虫の良い要求とし(楚は衛と曹の2国を救い、晋は宋だけしか救えないから)、戦う好機が来たと述べます。 

 しかし先軫の観測は違っていました。「子玉の要求を拒むことは宋、衛、曹の3つの国を亡ぼすことになり礼に欠ける。これでは楚と戦えないし、斉や秦にも言い訳がつかない。なので子玉の要求の通り衛と曹を復興させつつ、これを晋の意思として2国を味方につけ、しかも使者の宛春を捕らえて子玉を怒らせよう」というのです。またまた手のこんだ策略です。先軫は優れた軍略家ですが、このような謀略、外交にも長けていました。

 

開戦間近
 先軫の策をとった晋により宛春は逮捕され、衛と曹は楚に絶交を申し入れます。子玉は激怒して晋軍へ向かって進軍しました。すると晋軍はなぜか後退しました。多数はそれをいぶかしみましたが、これには理由があります。

 流浪時代の重耳が楚の成王に厚遇されたとき、成王は「もし晋に帰れたらどんな返礼をしてくれますか」と聞きました。重耳は「楚王はあらゆる宝物や産物などを持っているので、晋にあるものなど大したことはなく、渡せるものはありません」というニュアンスの返答を返したものの、成王はそれでもたって聞いたため、重耳はこう返しました。「もし楚軍と対峙することになれば、三舎を避けましょう。それでも戦いを避けられないならお手合わせ願いましょう。」と。ちなみに三舎を割けるとは、三日分の行軍距離(90里)を後退する、という意味です。このとき、子玉は重耳を殺すように進言しましたが、成王は「英雄はどんなことがあっても天に守られる」といった思想を持っていたようで、子玉を諭してそのまま厚遇しました。英雄を知る成王もなかなかの英雄君主でした。

 つまり、衛や曹、宋に対して行った恩返し、仇への報復の流れが楚に対しても行われたわけです。これで過去はすべて清算されました。どうやらこのとき孤偃は、晋軍の後退を見て楚軍が退いたらそれはそれで良い、と思っていたようですが、頭に血が上った子玉は晋軍を追尾し続けます。

 後退して戦備を整えた晋軍に、宋・斉・秦の軍勢も合流しました。ここでも楚との間に細かなやり取りがありますが割愛します。晋の兵車は700輌、単純計算で7万近い兵員が参戦しました。

 楚軍は中軍を子玉が率いる兵車180輌(約1万8千人)、左翼は子西(闘宜申)、右翼は子上(闘勃)が率いる形で編成しました。中軍は若敖氏という名門貴族の部隊で占められており、楚における最精鋭です。ちなみに楚の3人の将軍や、前の令尹の子文もすべて若敖氏の出身です。また、という南方の中華諸侯の軍も楚軍として参戦しています。兵力は晋の連合軍の半分かそれ以下だったのではないでしょうか。しかしそれでも恐れられるのが楚軍の実力だったわけです。子玉もなかなかの猛将であったようですし、ある意味では長篠の戦における武田軍のようなイメージでとらえると近いものがあるかも。

 

諸将の決意、重耳の決断
 重耳は迷います。ここで楚軍と戦うべきか否か。これに対する諸将の答えはこうでした。

孤偃「戦うべきです。戦って勝てば、必ず諸侯はついて来ます。たとえ勝てなくても、(晋には)山河の備えがあるから、何も心配はありません。」

欒枝「漢水以北の姫姓(周王室と同姓)諸国は、楚がすべて滅ぼしたのです。小さな恩恵にこだわって大きな恥辱をお忘れとは。戦った方がよろしい。」

 比較的穏健派の欒枝も開戦を主張し、晋軍の意志は一つにまとまりました。決意を固めた晋軍に対して、楚の子玉は子上を使者として送り、戦いを挑みました(春秋時代の戦争は儀式的な要素も大きかった)。

 

名将・先軫の戦術
 晋の下軍のうち胥臣の部隊は、馬に虎の皮をかぶせて突撃。比較的戦意の薄い蔡と陳の軍を敗走させます。すかさず孤毛が上軍の一部を回して追撃を開始。

 一方、欒枝率いる下軍の主力は楚軍に押されたと見せかけて後退。このとき馬車の後ろに柴を引きずらせて土埃を上げさせました。楚軍はそれを追撃します。

 進撃を続け長く伸びた楚軍を襲ったのは、先軫や郤溱率いる中軍の公族部隊。彼らは伏兵として潜み、楚軍を側面から挟撃。これを敗走させます。

 さらに晋の上軍は子西率いる楚の左翼を挟撃。これを敗走させ、晋軍は猪突猛進の楚軍を戦術で打ち破ったのです。子玉の直属部隊はまだ無傷でしたが、敗色濃厚のためそのまま撤退となりました。

 

戦後処理と晋の覇権樹立
 楚の成王は、敗戦の将である子玉に対して責任を問います。左翼の将・子西や子玉の息子である成大心は「子玉が自殺を図ったのを我らが止めたのです」と言いますが、子玉はそうこうしているうちに自殺してしまいます。

 晋の重耳は勝利を得たのにもかかわらず、憂いの表情を見せていました。いぶかしがる近臣に対して彼はこう言います。「楚に成得臣(子玉)が生きている限り、心配は消えぬ。追い詰められた獣でも最後まで暴れるもの。一国の宰相ならなおさらだ」と。しかし子玉の死を聞いて初めて喜びます。「余を悩ますもの(子玉)がいなくなった。(後任と予想される)蔿呂臣が令尹になっても、己のことで手いっぱいの男。民のことは念頭にあるまい」と。これにより、晋は楚に対して完全勝利の形となりました。

 その後晋は、楚との戦いで得た捕虜や兵車、馬を周王に献上したところ、大いにもてなされます。そして晋候・重耳は「候伯」つまり覇者に任命され、「謹んで王命に従い、もって四方の諸侯を安撫し、王室に仇なすものを懲らしめよ」と王より伝えられます。そして鄭をはじめとする、楚に属していた中原の諸侯を服属させ、晋による覇権を確立させたのでした。


 細かな逸話を上げるとさらに倍以上のボリュームになってしまうほど、城濮の戦いに関する記述や逸話は豊富です。それだけこの戦争全体が、南方の「蛮族」である楚による覇権を食い止めた歴史的瞬間であったと、歴史上考えることができるからだと思います。

 この後晋の覇権は、楚によって晋が大敗するひつの戦いまで続くことになります。このときの楚の王は荘王であり、楚の歴史上最大の名君と言われています。邲の戦いそのものは、開戦までの過程があまりにグダグダなので鮮やかさはありませんが・・・。

 その点、城濮の戦いにおける先軫の指揮は、これが本当に紀元前7世紀に行われたものであるのかというほど確固たる戦術的意志が感じられます。後世の兵術におけるテンプレートの1つとなる偽退誘敵→埋伏の計という形ですね。また、開戦までにおける政治的、外交的策謀についても先軫は楚の一歩先を進んでいました。彼を抜擢した晋の首脳の眼力の確かさにも驚かされます。

 そして何より、19年もの流浪の日々を送った晋の文公・重耳の覇権が、孤偃ら彼を信じる股肱の活躍により成就させられたのでした。

【城濮の戦いを描く小説】

先の記事でも紹介しました、晋の文公・重耳の生涯を描きます。

城濮の戦いの後で重耳の車右に任命され、ゆくゆくは晋の名宰相の一人と呼ばれることになった士会が主人公の小説です。