【スターオーシャン6】メインストーリーに関する考察~スコピアムから見る進化や効率化の話

 ゲームレビューは下記記事より。

【スターオーシャン6】クリア後の感想

 今回はストーリーの主題に関する考察を垂れ流します。題材が題材だけに妙に哲学的な話になった気がします。単なるレビューよりネタバレ度がもう少し強まるので、ストーリー未見なら見ない方が良いかも。うっかり見えないようにスペース空けときます。

 

 

 

 

 

 

 

 

スコピアムとは何だったのか
 生物と機械が融合した機械生命体であるスコピアム。機械化した体を得ることによって、独自のネットワークに常にアクセスすることができ、すべての構成員が得た知見や情報、意見などを共有することができるのが特徴。そしてその構成員は自己の意思や精神を機械やネットワークに支配されるということはなく、従来の生物独自の感情や思想などを保持し続けることができる。

 これって要は、One for all, All for oneの精神的観念を3次元世界に具現化させたもの(厳密にはネットワークは物質ではないが)と捉えるのが最も端的といえるのかもしれない。東洋風にいうと色即是空がそれに近いと言えなくはない。
※「空」を“有と無を併せ持つ観念”であるとの解釈による。「虚無」と捉える発想とは相容れないほう。

 各個体が持つ、あるいは得た知見を「すべてのスコピアムが共有できるネットワーク」つまりクラウドサーバーのような何かに常時アップデートされて種(しゅ)の共有発展を図るというのは建前上理想的だし、ある意味では現実世界における建前上のコミュニズムはこれに類する観念であると言えなくもない。

 

無機的ディストピアとの違い
 そしてその上で各個体(個人)の主体的意思を損なわないというのも一見理想に見える。管理統制された理想社会における個体のアイデンティティ喪失は、過去の創作物においてさんざん提起されてきた問題である。

 例えばゲームを題材に挙げるなら、最も端的な例としては火星物語。社会全体の安定を守るため、不安分子となり得る思想の持主を事前にあぶりだしたうえでAIチップを脳に挿入し、さながらロボットとしての運用を行ってしまう。ユートピアを標榜しつつも、その裏側はディストピアが存在していた。

 また、子供の名前の命名という概念をアイデンティティと見なしての展開も魅力的だった。そしてこれは自らの意思を以て生きることを是とする主人公たちに覆されていくわけだが。

 他にはテイルズ オブ シンフォニアも思い起こされる。用語等の記憶があいまいだが、いわゆる「天国」に当たる世界のあり方は、いかなる感情や欲望にも左右されない、無機質的ながら絶対的な平穏が是とされた社会であった。

 これも、人が人として生きることの可能性を信じるロイドたちの手によって打ち破られていくわけだが。シンフォニアに関しては、下界の人類がさながら家畜のような扱いを受けていたのも、如何にもユートピアの裏側にあるディストピアの側面を垣間見るかのようであった。シンフォニアは近々リメイクされるんだったか。

 そういえば、上記2作品の無機的側面は、先ほど少しだけ述べた「建前上のコミュニズム」に近しいものがあるのかもしれない。何だかんだいって最上層部が甘い汁を吸っていると思われる現象もまさにそれといえるのか? やはり「統制社会」という有り方そのものを問うに等しい所業であるのか。

 

ディストピア回避によるリスク
 さて、上記2タイトルはさながら、最も人道的であることは最も非人道的であることの反証であるとでもいわんばかりである。であるがゆえに、スコピアムはそうした非生物的な社会ではなく、個人の主体的意思そのものを奪うことがないというのが1つの魅力とされている。

 しかし、そうした個人のアイデンティティの維持が許された結果、今度は侵略的思考を持つ個体または集団が出るリスクが生じる。特にスコピアムの行動原理が「進化」である以上、常に理知的、平和的に立ち居ふるまうことが必ずしも最高効率であるとは言い切れないのも確か。

 そのリスクの極端なものとして描かれたのがボルドールをはじめとする総統派の面々。理想郷を作るのが目的であるのだから、そのために少々の犠牲が出ることをいとわないといわんばかりである。

 ラストダンジョンにおいて描かれる、人間味のあったころの(本人としては最後までそうであったつもりだろうが)ボルドールの記憶がまた象徴的で、結局のところタチアナを失った傷から立ち直れていなかった、というのが全ての起点であったのか。

 それにしてもやることが極端すぎるのは創作のラスボスにありがちな非合理さではあるものの、実際に歴史上の人物も時折意味不明な行動をとることを鑑みれば、人間という生き物は実際にそうであるのかもしれない。

 

“一にして全” 概念の限界
 実際、One for all, all for oneを本当に突き詰めていくとき、全体の利益を究極化するために個体が消費されてしまう現象は避けて通れない場合がある。そしてそれは半ばシステマナイズされた現象であるため、その「個」が何らかのマイナスな反応を見せるかというとそうでもない。特にスコピアムにおいては「機械」的側面の一端であるともいえる。

 一方、人間的目線から見るとどうか。ある意味では「理想のための死」というものを英雄視しがちなのが人間という生き物でもあるし、そうした犠牲を肯定する側面が人類にはある。であるがゆえに、人間を素体とした機械生命体の一部に、「犠牲をいとわず理想を追い求める」思想が宿るのはやはり必然なのかもしれない。

 

相互認知による世界の可能性
 そしてそういったことにストーリーを通じて気づいて行き、スコピアムの新たな道を模索する必要性をひしひしと感じていくのがスコピアム側の代理人とも言えるDUMA。彼?が出した最終的な結論とその意思はネットワークに共有され、新たな選択肢の可能性として提示されていく。

 また、この段階において、人間側でスコピアムの理念を「受け入れはしないがその存在を認める」というスタンスを取り始めたレイモンドたちのあり方も、また「融合ではなく共存」という道の可能性を示すことになった。

 というか、「受け入れることはしないが異なる価値観の存在を認知する」というのは現代の人類における永遠の課題であるともいえる。これを成し得ない限りは真の平和など絶対にありえないのだが、どうしても単一の価値観を押し付けるのが得意な面々がマジョリティとして活動している以上、この問題はまだまだ解決しそうにない。

 

進化や効率化自体に含まれるリスク
 結局のところ、進化や社会統制に限らず全てを合理的に突き詰めたとき、その仕組みはいわゆる「人間性」を喪失していくことになるという話ではある。そして人がその感情や感性を失っていない限り、反発として最も非合理的な行動をとり、その安定を阻害するリスクは必ず存在する。

 だからこそ一足飛びの進化は危ないというのは、ニーナに対して先進惑星の医療をそのまま教えることを拒んだエレナの主張において説明された論理がまた端的である、という見方もできる(もちろん耐性菌の発生リスクなどが直接的な理由ではあるが)。

 小さなプロセスを経ていくことによって段階的に(つまり空白を残さずに)学習していかなければ、1歩間違った時に失われるものがあまりに大きすぎるリスクを持つ。

 極端な飛躍のある進化を良いものとみなさない思想はマリエルが語ったところでもあったし、SO6の物語の主題は結局そこに収斂されていくのかもしれない。

 それこそどこかの戦争でまるで100年前に戻ったかのような戦術が展開されているのも、逆説的にそこまでのノウハウが残っていたからその状態を保つことができた、ということの証左であったりするし。

 

 結果はもちろん大切であるものの、そこに至るまでの、プロセスというよりは「理由」、つまりなぜそうなるか、なぜそれが必要であったのか、なぜそれが効果的であるのか、といったエビデンスのような何かを残していくことが極めて重要であるという点において、進化や発展における「飛躍」が必ずしも効率的ではないと考えられる最大の理由であると言えるのかもしれない。


 以上、ほぼ垂れ流しでまとまっていないかもしれませんが、色々と思うことを述べてみました。