投稿日 2022年4月16日 最終更新日 2022年4月16日
今回は、現代の情報社会に対する向き合い方について考えました。
情報過多社会
ビジネスに限らず現代は「情報社会」であるため、情報収集こそが大切というのは大抵の人がうなずく意見だと思います。一方、雑多な情報が溢れてしまい、すべての情報を処理するのは1人の人間では不可能という現実も強まったため、「情報の断捨離が大切」という目線も近年では提案されています。
「積極的に集めに行く」と「遮断する」という2つの相反する概念によるダブルバインドに陥っているのが現代人という見方ができます。そんな中、私個人としては、「集めに行く」も「遮断する」も存在しない状態こそが理想だと考えています。
無意識の習慣を削る
まず第一に、必要かどうかもわからない情報を都度都度探しに行くようなことをしていると、本来の活動を行う時間が無くなってしまいます。私はこうした時間のもったいなさを強く感じるようになったため、また基本的に予定をギッシリ詰め込むタイプなので、そんなことしている場合ではないと感じて「とりあえずネットを見る」という習慣を近年では断ち切ることをしています。
ちょっと気持ちに隙ができたからと、ヤフーニュースだとかインターネット掲示板、雑多にフォローしたツイッターのタイムラインなどを見てしまう癖がつくと、気づいたら30分、1時間という時間を無駄にしている可能性があります。これが積み重なるとあまりに大きいタイムロスです。もちろん、明確に見たい場所や検索したい用語がある場合は探しますけどね。
無理に遮るのも不自然
一方で、「遮断する」という発想も若干違うかなと思っています。確かに、不要な情報を「わざわざ見に行かない」ことは大切だし(テレビを見ないとかもどちらかというとこれ)、有用性の低いサイトを日常の視界に入れないことは悪くありません。
しかし、「意図的に情報に触れないように決別する」というのは不自然に過ぎると考えています。別に不要な情報が混じっていたからと言って、軽く流せばいいだけです。すべての情報に真摯に向き合う必要はないのです。ただし、最初は「無意識にどうでも良い情報を探しに行っている」人も多いと思うので、自分の思考や行動を客観的に観測していくことは大切です。
無為自然のような何か
では理想とはどういう状態かというと、自然と日常を過ごしているだけで、必要な情報を自動的に五感のいずれかで摂取することができる状態。そしてそのためであれば多少不要な情報が混じっていても気にしない。そういう仕組みが出来上がっていることだと思っています。
もちろん、それを完璧に果たすには良質なコミュニティや人間関係、自分にあった情報がまとまっているWebサイトなどの環境が必要になってくるのでハードルは高いと思います。しかし、それを意図して生活していく中で少しずつでも近づいていくことができるのではないかなと思っています。
実際、最近の私は「とりあえず見に行く」というプロセスをほとんど省いていますが、機会損失の有無はともかくとして、より有益な時間を多く過ごすことができるようになったと実感しています。有用「かもしれない」からといってあらゆる可能性を模索してしまうと、肝心の行動する時間が削がれてしまうことを思うと、日ごろ自ら「時間を割いて触れに行く」ツールの数は少ないに越したことはありません。
お仕事に関しても情報に関しても、欲しいものの方が「こちらに寄ってくる」つまり無意識的に「そちらへ寄っていくマインド」を持つという状態を目指したいのが現代であるという認識になってきたといえるでしょう。