投稿日 2021年8月28日 最終更新日 2021年8月28日
過去の雑記記事においては基本的に、より良い環境を目指していくということに重点を置いた考え方を示してきました。しかし私個人として時々、その正反対の「そもそもの自己満足ボーダーを下げる」生活でも個人という広さにおける満足度は最も高いものにできるのではないか、という思いも捨てきれないところがあります。人間が常にこのようなジレンマを抱えているという点において、一度、両極端な2つのスタンスについて対照的にまとめてみようと思います。私はこれらを便宜上、マキシマムライフとミニマムライフと名付けることにします。
マキシマムライフ
マキシマムライフ 1.経済的自由ないしは「好きな事が仕事」or「仕事が好き」状態 2.自分が本心からやりたいこと、欲しい物を見極めて実現している 3.上記のための費用は理想的に満たされている 4.いずれの行動も自分による選択のため、満足度は最大値
1.経済的自由ないしは「好きな事が仕事」or「仕事が好き」状態
経済的自由とは、投資による継続的な不労所得等によって、労働に縛られずに生活が賄える状態のことです。あるいは好きな事を仕事にして無理なく続けられたり、仕事自体が好きだったりする状態だと、働くという行為を苦に思わない状態になりますね。生活を維持するために多大な苦痛を要さない。マキシマムライフの基本的な立脚点はそこにあると思います。もちろん好きな事が仕事であったり、経済的自由を達成していたりしても何かしら大変なことはあるでしょう。しかしそれも嫌な仕事を毎日長時間行ったり、体力的、精神的に苦痛でしかない仕事を行ったりするよりは圧倒的にマシでしょう。逆にどうしようもなく苦痛であるなら、その現状自体が誤りである可能性に思い至るべきです。ということで、努力を努力と思わない状態であることが肝要です。
2.自分が本心からやりたいこと、欲しい物を見極めて実現している
1.によって得られた自由や環境を生かし、自分が本当にやりたいこと、欲しいものをコンプリートしている状態です。何でも金に飽かせて手に入れれば良いというものではなく、他者への見栄など無関係に、自分自身にとって望ましい現在を手に入れている状態であることが大切です。他者に迷惑や危害を与えていない限りは、他人からどう見られようと、自分の好きな物事とともに生きていれば良い。それを否定できる人間はこの世に存在しません。
3.上記のための費用は理想的に満たされている
1.と2.の複合です。経済的自由によってやりたいこと、欲しい物が担保されている状態。とはいっても自由の範囲内でうまくやりくりして、少しずつ整えるくらいの計画性は必要でしょう。また、2.の条件は人それぞれで、あるいは年収が億単位必要な人もいるかもしれませんし、あるいは年収500万円かそこらで達成可能な人もいるでしょう。大切なのは数字ではなく、自分自身が本当に必要とするものであるかどうかです。これはモノを購入する指標としても当てはまります。何かを購入するかどうかの判断で、値段を基本的な理由にしてはならないということです。本当に欲しいものが偶然安かったから買う、なら良いですが、半額セールだからとりあえず買う、などは結局後で後悔しがちだったりします。
4.いずれの行動も自分による選択のため、満足度は最大値
以上の通り、自己の本心に根差した理想的な状態であるため、達成までの困難な道のりを除くと人生の理想形ということができます。そこまでたどり着く行動規範は人それぞれであり、たとえばリベ大のような経済的なところからスタートする人もいれば、潜在意識化やアファメーションなどを利用した脳科学的なところをよりどころとする人もいるでしょう。もちろん特に意識せずとも自己パターンが確立できている人は、無理に意識せずとも達成できるわけですが、そんな人はこの記事を見るまでもないとも言えます。
過去の記事でも取り上げた通りの、自己の無意識に問いかけたときの理想を成就した状態、それがマキシマムライフです。デメリットはやはり、実現までに年月を要するであろうことが最大のものとなります。そうしたとき、今や近い未来を犠牲にしすぎると本末転倒となることもあるのがネックです。努力を努力と思わない状態なら良いですが、「今を犠牲にしている」という思いが強くなると結局未来も犠牲にしがちだからです。
ミニマムライフ
ミニマムライフ 1.無理のない仕事で無理のない収入を得ている状態 2.他者との相対から離れ、自分にとっての最低限以上の欲求を満たしている 3.無駄な消費はしないため、生活に支障はない 4.体力的&精神的負担を減らすことで、トータルでの満足度が通常より高くなる
極端な話、一切働かずに済んだら、娯楽にお金をほとんどかけなくてもまあまあ満足した生活は送れると個人的に思っています。一切の体力的、精神的苦痛から解放されたら、平凡な楽しみを消費するだけでも楽しさや満足を感じることができるって感じです。人によっては理解しがたいかもしれませんが、少なくとも私はそう思います。これは過去記事で述べたような、教育や環境によるすり込みを原因とするある種の洗脳とは異なり、強いられや諦念からすら解放された自己の自発的意志による概念です。
実際にかつて私が派遣社員として働いていた期間、ある派遣先での勤務が終了して次を紹介されるまでの間、というものがたまにありましたが、その暇な期間は無駄な時間を多く過ごしても、暇なうちはそれを享受してしまうんですよね。そして次の仕事が始まって忙しくなると、苦労して働いた分あれもやりたいこれもやりたい、という等価交換的発想が働いて、結果的に少ない自由時間を有効活用しないと損をした気分になってしまうという要素がありました。この傾向は仕事が忙しければ忙しいほど、辛ければつらいほど、自由時間が少なければ少ないほど強くなるという側面もありました。
そのような発想からスタートして、でも一切働かないで生きるわけにもいかないので、働かないわけじゃないという条件のもとで、苦痛と無駄を洗いなおしてマイナスを除去することによって、プラスの価値をより強く感じられるような生き方を、私のいうところのミニマムライフと捉えます。
※持たざることや、極度な節約を行うことを是とする放棄的な考えとは全く異なります。自己が生きる上で本心から必要とするものを認識したうえで、不要なものや有害な情報を除去し、必要なものを生活バランスの範囲内で享受する。他者の価値観に左右されないスタンスのこと、といったところでしょうか。100点満点からの減点法ではなく、最低限のボーダーを定めた上でそこは必ず維持しつつ、無理なく向上できるならそれも拒みはしない、という形の「無理をしない」ということに重点が置かれています。
1.無理のない仕事で無理のない収入を得ている状態
苦役に人生のほとんどを支配される”お金の奴隷”になるのは最も精神衛生上良くないムーブだというのは紛れもない事実だと思います。また、過去記事でも述べたように、無理をして社会の価値観に順応する行為は社会的洗脳の成果とでも呼べるものであり、中途半端に努力したつもりになること(そして苦役にある自己を正当化すること)は最も搾取されている対象となってしまいます。なので、もし労働だけで人生の気力を使い果たす状態になっているならそこから脱して、少しでも体力的、精神的にゆとりを持てる仕事を持つことが第一です。あるいはそうでなくても、改善できるところは改善するのがベター。
2.他者との相対から離れ、自分にとっての最低限の欲求を満たしている
令和の時代、インターネットが人々の生活にとって必要不可欠になっています。そのため自分とは生まれ育ちや環境の大きく異なる他者の存在を認知することも当たり前になっています。しかし自分より得をしている、楽をしている人間と自分を比較してしまい、”自分は損をしている”と思うことは結果的に、己に対して思考の枷を付けてしまうというデメリットがあります。
また、社会的世相として、ツイッターでもテレビでもインターネットでも、落ち度のある他者を批判するのは当たり前、批判であるなら誹謗中傷や暴言を発しても構わないという不思議な風潮が生まれてきています。Yahoo!ニュースなどでも、特に専門家というわけでもない人が、無関係の他人に対して悪口を言っているだけの記事が溢れすぎてニュースサイトとしての機能が著しく落ちているという現象もみられます。
しかしよくよく考えてみましょう。誰かを批判したところでその誰かが自分に利益を与えてくれるわけではありませんし、何ならその言葉はせいぜいネットの一般人がちょっと流し読みするだけで相手に届かないことの方が多いまであります。そしてたとえ届いたとしても、その結果自分にとってメリットのあるリアクションが現れる可能性は限りなくゼロに近いです。批判することも、批判者どうしがシンクロしあうことも、あるいはお互いに批判しあうことも、自分の人生にとっては何1つメリットがありません。むしろ時間と精神の無駄遣いです。
※記事等で批判合戦をしている人たちは他媒体での発言を取り上げられているだけであったり、記事にしてもらうことで利益を得たりしていると思われます。気にしないでおきましょう。
他者を見てうらやましがったところで自分が変われるわけではありませんし、他者を批判したところで自分にメリットが返ってくるわけでもない。なので他者を見ること自体をスパっとやめてしまうくらいがある意味最も健康的だというわけです。もちろん、すべての他人と関わることを止めるというのは無理がありますから、視界に入れる相手を選ぶ、という選別が必要になってくるでしょう。これは情報の取捨選択においてもそうなのですが、現代は自分に対して不利益であったり、あるいは無用であるために視界に入ること自体が無駄であったりする情報が多すぎます。なので自分で視界に入ってくる物事を取捨選択(ゆくゆくは無意識で視野選別できるようになるとベスト)することが非常に重要になってくるのです。その人が視界にいることで楽しいとか、有益な情報を得られるとか、そういうプラスの観点で選択肢を絞ることができれば良いですね。
3.無駄な消費はしないため、生活に支障はない
2.にもつながるのですが、人間は他者へ見栄を張ったり、他者と張り合ったりするために何かを買ったり、何らかの努力をしたりすることがあります。特にブランド物の購入であるとか、高価な家や車の購入であるとか、あるいはソシャゲでの課金であるとか。自分で浪費と分かっていて、でも本当に好きで行っている消費であるなら良いのですが、見栄や張り合いのためだけに行ってしまう場合、本来は必要のない金額を消費しがちです。なので、そういった無駄な消費を減らしていくと案外にも自分にとって必須であったお金は少ないことに気づいたりします。そういう意味でもインターネットなどの情報から一定の距離を置く、視界を限定するという選択肢が、ミニマムな生活にとっては重要となってくるわけです。
たとえばゲームでいうと、基本無料のソシャゲではコンテンツをクリアするだけでも膨大な課金額でのガチャを要求されることは日常茶飯事です。でも、普通にゲームをしたいだけなら、PS4~5であるとかニンテンドースイッチであるとかPCのスチームであるとか、買い切りタイプのゲームであればソフトは数千円。仮にハードを持っていないとしても数万円あれば何年も使えるわけです。ソシャゲが本当に面白くてしょうがないなら話は別ですが、他者との関係性の観点から楽しくもないのにソシャゲで時間やお金を浪費しているのだとしたら、少し考え直しても良いと思います。あるいは、本当にそこまでお金を使わなくても問題ないのでは? というところから問いかけても良いと思います。これも余ったお金を好きに使うのは自由ですからね。あくまで自己意思であることを再認識したうえで消費のリソースを定めることが肝要です。オンラインゲームの方はソシャゲと比べるとまだ優しいですが、それでも近年はソシャゲに近い遊ばせ方をするものが増えてきています。これも見直してみる価値があるでしょう。
4.体力的&精神的負担を減らすことで、トータルでの満足度が通常より高くなる
同様に、「別になくても困らない」消費を抑えていくと、自分が本当に必要とする生活+趣味の費用は案外少ないかもしれません。もちろん、本当に欲しい高額な物が出てくるのはやむを得ないでしょう。その場合は無理がなければ買う、無理なら自重する(お金を貯めるなど)、で良いわけです。基本的には致命的に高額なものが精神安定上必須であることはそうそうないと思いますが。これに関しても1.で生きることそのものの苦痛度を減らし、楽しむという概念へのハードルを下げておくことで初めて、効率良く進めることができるものとなります。
このスタンスで生きると何かを成し遂げるなどのやりがいを失うという見方もできます。しかし皮肉なことに、自己の潜在意識の不満足度が高ければ高いほど、その不満足さを維持する現実を招きやすいという傾向性もあります。なのであるいは、このようなミニマム化を進めることで却って物事がうまくいきだす可能性すら否定はできません。
逆に「どんなに辛くてもお金をたくさん稼ぐ」ということをスタートラインの目標にしてしまうと、苦痛でしかない日々を我慢するだけ我慢した結果挫折してしまうリスクが高いですし、最も大切な「いま」という時期の人生を犠牲にすることになってしまいます。そして往々にしてそういった自己犠牲的な苦痛は「一定期間頑張ったからおわり、後は楽な人生」という風な都合の良いものになってくれる=報われることはあんまりなかったりします。しっかり稼げている人はそもそもそういうマイナス思考でお金を稼いでいるわけではない場合が多い、ということです。なので、まずは自分の人生におけるマイナス要素=デバフをできるだけ取り除いて、そこからリスタートを切るのは悪いことではないかもしれない、というのがミニマムライフの基本的な立脚点です。
元がプラマイゼロなので、些細な喜び(プラス)を素直に享受できる。それがミニマムライフの魅力といったところでしょうか。もちろん、今の仕事がつらいけど急には環境を変えられない、あるいは自己の満足のボーダーを下げるのは難しい、という人もいるとは思いますが、何も変えなければ何も変わらないのが現実であるということも否定できません。豊かさとは何かという固定観念に縛られているなら、一度立ち止まって考えてみるのも手ではないでしょうか。
たとえばこのブログにもサーバーの維持費用が掛かっているわけですが、じゃあこれは無駄な出費だからやめてしまおう、と割り切るのかとか、他者へ文章や情報を発信することは自己へのメリットがないので取りやめるべきではみたいな話になってくると、なかなか難しいものがあります。確かに無駄なお金、時間の浪費や苦痛の取得は避けるべきですが、人生からすべての無駄を省くと非常につまらないものになってしまうのは、前回の音楽の記事でも述べたとおりです。ミニマムライフではあくまで自己が必要としないものを省くというところがミソです。我慢をするのとは違います。もちろんマキシマムな生活と比べると欲望を全開にするわけにはいきませんが。何より他人の価値観に左右されないということが最も大切なのです。
完全にマキシマムな生活が難しいように、完全にミニマムな生活も現実的に無理がある場合は多々あるでしょう。そこで、それぞれの特徴を把握しつつ、自分なりにバランスをとっていくというのが個々人にとってのベストな選択となっていくわけです。
誤解を招かないための補足もある程度入れてきましたが、あらゆる視点からのそれをコンプリートしようとすると際限がなくなるため、この辺で筆を置きます。