投稿日 2020年12月29日 最終更新日 2021年1月1日
歴史記事第一号はマイナー人物に焦点をあてるコーナーでお送りします。三国志演義ではザコの1人として扱われ,比較的正史寄りの漫画・蒼天航路でも情けない扱いをされた劉繇。彼について弁護(という言い方もへんだけど)してみたいと思います。
劉 繇(りゅう よう)字:正礼 156~197年
後漢末期の人物。漢の皇族で,青州黄巾軍と戦って敗死した兗州刺史・劉岱の弟。若いころ,盗賊にとらわれた叔父を自ら救出したことで名声を得た。
さまざまな官を経たのち,揚州刺史に任命されたが,揚州の主要都市・寿春にはすでに袁術が居座っており,長江を渡って曲阿を本拠地とした。身一つで赴任した形の劉繇だったが,地元の豪族などの支援により勢力を拡大。やがて袁術と対立する。
彼の元には人物批評の大家であった許劭(きょしょう。字は子将)など,それなりの人物が集まっていた。自前で築き上げた勢力により袁術とは実質拮抗した争いをしており,彼は決して無能な人物ではなかった,といえる。しかし猛将大史慈については,許劭に何かいわれるのではないかと気にしてしまい,大任を与えることができなかった。結果彼は孫策に走る。
後に孫策が袁術の配下として攻め入ってきたときは敗れ,荊州方面に逃れた。このとき,袁紹派の予章太守・朱皓(黄巾軍討伐で活躍した朱儁の息子である。)と,袁術派の太守である諸葛玄(「三顧の礼」で劉備に迎えられた諸葛亮・字は孔明の叔父である。)が予章の支配権を争っていたが,劉繇は朱皓に味方した(袁術と対立していたため)。
朱皓に味方した劉繇は諸葛玄を敗死させることに成功したが,配下の笮融が勝手に朱皓を殺害して独立したため,笮融を攻撃,敗走させた。そうこうしているうちに彼は病を得て病死してしまう。
のちに孫策が劉繇を手厚く弔い,遺族を丁重に扱う。また、子の劉基は呉に仕えて重用され、大司農などを務めた。
★補足・総評
このように,当時は多くの軍閥勢力が袁紹か袁術のどちらかの影響を受けることが多く,ある意味代理戦争の様相を呈していたと考えられます。たとえば劉備の学友であった公孫瓚は袁紹との対立関係もあり,袁術との協力関係にあったし,劉備に徐州をゆずった陶謙もそうでした。逆に袁紹は,袁術の勢力の向こう側にいる荊州刺史の劉表と協力しました。このように,各地で敵対勢力同士が二派に分かれての支配権争いが行われていたのが特徴です。
乱世にあって,家柄の力はあったといえども自力で勢力をたくわえ,一方の群雄として戦った。間違いなくそれなりの人物ではあり,敵である孫策にも丁重に弔われました。
運命の歯車によって偶然,名将である孫策と戦わなければ鳴らなかった不運によって,後世から不遇な目で見られるようになってしまった,というのは言い過ぎではない、と思います。
…という風に,三国志演義でチョイ役やザコキャラでしかなかった人物にも,それなりに優れた一面がある場合も多いという
一例でした。