前回は現代の創作物を中心として「名前」に関する話を取り上げましたが、今回は歴史における「名づけ」に関するちょっとした話を取り上げようとおもいます。前回記事は下記より。
歴史上の人物の名前
歴史を知っていくと、「アレ、この名前他にもいたな?」という現象がたまにあります。もちろん、特定の地域において同じ名前が尋常じゃなく多い現象(ヨーロッパより東の地域とかね)もありますが、それとは別の問題で。
そんな例をまず、中国の春秋時代から1つ取り上げてみます。紀元前6世紀ごろ活躍した歴史上の人物に、下記のような人たちがいます。
晏弱(晏桓子) 斉の大夫。将軍として山東の国「萊」を征服。 著名な晏嬰(通称:晏子)の父。 国弱(国景子) 高氏と並ぶ斉の宰相の家柄。 霊公に父の国佐が粛清されたのち出奔したが、 呼び戻されて家を継ぐ。外交などで活躍。 高弱 前述の高氏の出身。 父が霊公に追放されたため謀反を起こしたが敗れ降伏。 士弱(士荘伯) 大国・晋の名門である士氏出身の政治家。政戦両面で活動。 ちなみに士会から始まる范氏は士氏の分家。 華弱 宋の臣で司馬を務めた。 幼馴染の楽轡とじゃれあって痛めつけられたのを見て、 宋の平公に「司馬(軍務大臣)に耐える人物ではない」 と判断されて追放された。その後、魯へ出奔。 ※この逸話、なかなか理不尽には思えますが、これが春秋の貴族社会なのか。
「弱」ネーム多くないですか? 春秋に詳しい人なら比較的記憶に残っているであろう人物だけでもこれだけいます。マイナーな人物や時期違いの人物ならもっといるのではないかな。
流石にこれ、流行りなんじゃないかなあと思うわけです。そして現代的な感覚からすれば、息子に「弱」の名を着けるのは不思議に思うでしょう。というわけでその理由を想像してみます。
まず、「弱」の字の由来は「弓」と「彡」(かざり)。つまり装飾された弓だそうです。そして弓といえば実は、春秋貴族が修めるべき嗜みの一つだったりします。
春秋の合戦における“弓”
春秋時代の戦争では、兵車(馬車)を中心としてそれに付属する歩兵や工兵が軍勢(人数によって軍、師、旅と表記)を構成します。
軍勢の主力を担う兵車に乗車するのは3人。まずは馬車を動かす御者。もう1人は護衛の武人である車右。兵車の右に立つことからついた名前です。車右には勇士と誉れ高い人物が任命されます。特に国君の車右や御者になることはとてつもない名誉でした。
そして最後の1人が、馬車のあるじ本人となります。車左とか車長とか呼ばれます。文字通り兵車のなかでは左側に立ちます。貴族の当主などはこの立ち位置になります(あまり貴族という呼び方は使いたくないけど分かりやすく)。
車右が戈などの近接武器を用いるのに対し(他の兵車の敵をひっかけて車から落として歩兵に処理させたりする)、車長は弓で攻撃します。つまり上流貴族たるもの、軍事的に弓を使えることは必須の要件であったわけです。
ちなみに、春秋貴族は「出将入相」つまり、将軍としても相(大臣=政治家)としても活躍するのが理想とされ、多くの国において宰相が最上位の将軍を兼務するのが当たり前となっていました。
精神修養としての“射”
また、古代中国の貴族(士・大夫)にとって学修すべき6つの技芸である「六芸」の中にも“射”(弓術)が含まれています。ある種の精神鍛錬というか、貴族としての在り方を体現するツールとして、弓を扱えることは貴族の象徴であったわけですね。
※軍事的な理由と六芸としての在り方に関連性があるのか、また「どちらが先か」みたいなのは専門的過ぎるので不明としておきます。
そう思うと、名前に「弓」関連の字が含まれることは不思議ではない気がしてきます。さらに、「飾り弓」である理由も何となく見えてきたのではないでしょうか。
弓を扱えることは貴族であることの体現。そして、それに飾りがついているということは、名誉ある士・大夫としての誇りを体現した存在が「弱」、つまり飾り弓なのではないかという解釈です。
これなら、紀元前6世紀ごろという、まだ下克上もさほど盛んではない、名門貴族を主体として秩序ある統治が行われていた時代にピッタリの思想ではないかと思えるわけです。
というわけで、古代中国の時点ですら名前には流行りがあったかもしれないこと、それはその時代に即した思想や風潮によるものであったかもしれないことについて考えてみました。
もう1つ名前の流行りの可能性として面白い時代が存在するので、人数が揃いそうならまとめてみるつもり。