今回は、ヒト1人の力の限界の向こう側にあるモノについての思考を垂れ流してみました。
※ブレダン実録に関しての注意点:通常の記事とは違い「特定のターゲットに向けて発信すること」「何かを主張すること」を目的とした文章ではありません。あくまで自然発生的な思考の一例として見てください。また、ターゲットを持たない思考そのままの文章であるため「文章の内容の本質が伝わる可能性」も担保していません。分かりにくくても当然でありかつ、分からないものに触れてみるのも一興とした企画です。
ブレインダンピングについては下記の記事で述べています。
人事を尽くして天命を待つ
“今自分にできること”をやり尽くしたと感じたとき、それ以上の何かを得るために必要なのは時間や他人といった「機会」であることに気づく。
その先においても“変わる”ことを必要とするのは自分であるのに対し、“変える”ことを行うのは自分ではないという矛盾のようなリアルに向き合う必要がある。「人事を尽くして天命を待つ」っていう諺はまさにこういう心境の事を指すのだろうなと思ったり。
入口が他人軸だと天命は来ない
この過程において、他人軸というか社会軸、つまり「常識」のような自分由来ではない価値観をベースにした目的達成を行う方が、目先の成功率は高い。しかしそれはある意味、環状線をぐるぐる回り続けるような、生存のみが保証される無限ループへの入り口に感じられたりします。
つまり、マズローの5段階欲求における生存や安定の土台が「自分にそぐわないもの」を材料として成り立っている場合、そこから先で出会うコミュニティや人脈も「偽りの自分」と相性の良いものになってしまうということ。
するとその先の自己実現も本来的に目指したかったものからブレていく。すなわち、もし社会的成功を収めても自分自身は全く満足を得られない「天国のような地獄」を招く可能性が高いということ。そういう意味で、己の潜在的意識を知っておくということの重要性が又あるのではないかと思います。
生存や安定はすべての基礎
「倉廩実ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱を知る」というのは、「生存と安定が保証されることで初めてヒトは倫理や道徳を意識できる」という基本的な意味もさることながら、 もっともっと深い意義があるということに最近気づき始めています。
表面的なことをもう一度ありていにまとめると、 他人の価値観で自分を誤魔化して生きていると、何もかも「それベースで考えたときにだけ最高の」人やモノや出来事しか来なくなるってところかな。特に他人からは表面的な言動や行動しか見えないので。
関連記事
自分が求めるもの、必要とするものを見極めてこそ自分軸。
全ての結果を自分ごとにすることこそ自分軸。