思考実験:予定調和も人の心も第六感もすべて量子反応なのかもしれない

投稿日 2024年11月13日 最終更新日 2024年11月13日

 素人の思考実験として、最近思いつつあることをつらつらと。


 「当たり前」を「当たり前のように言語化する」にはそれを「当たり前という認識のない他者」を必要とする。ルールやセオリーを知らない人間が他にいない限り、その当たり前は存在そのものが浮き出てこない

 つまり1人で完結する世界とはある意味1次元世界であり、そこにはすべてがあって何もない

 

 1次元世界に居るということは、すべてを実行していることと何も実行していないことが等価値になる。但し全てを実行していることから生じる様々な消費や損失はもちろんなかったものにはならない。

 ここに「何も為さない」が「何かを為す」を上回る法則のようなものが発生する。物事においても人生においても。

 変数としての他者が生じることでこの公式は崩れるものの、その結果生じるのは原因や理由を他者に求めるいわば他責のような思考であり、いわゆる自分軸からの逸脱という不具合が生じる。

 つまり全てを自己に委ねることができてしまった場合「無意識的な願望」は1次元に圧縮されて「無いものがある」となる。

 

 人生の自己責任(自己決定)論は99%正しいけど、ここに致命的な不具合がある。理由のいくばくかが他者に求められない限り、ヒトは何らかの社会的活動を行う理由自体を持たなくなっていく。

 「他者にとっての利害」を勘案しないかぎり、そこに社会的活動は発生しない。そしてそこに経済(やビジネス)が絡んでくる限り、マーケティングによって他者目線を突き詰めることが必要になってくる。

 「自分軸で他者にとっても意義ある活動を続ける」だけでは結果として「社会や他者にとっては何もやっていないのと変わらない場合も多い」という厳然たる事実が存在する(経験談)。現代の「ビジネスが全て」「ミクロな社会は死んだ」という社会固有の性質でもあるけれど。

 もっと言えば、自分軸の行動のみでは「他者から存在を認知されること」自体がとても難しい社会だから、というところか。

 完全に他責の人生がただの理不尽になるのとは対極に、完全に自責の人生はある種の存在の意味消失をもたらす。

 これはニヒリズムやペシミズムと似ているように見えるかもしれないけどその実まったく異なるもので、ある意味対極でもある、必要の消失とでもいえるもの。

 結果を求めたゆえの無常でもなければ、現状を否定したための厭世でもない。一切のプロセスを必要としない「ただそこにあること」そのものの受容。

 「ヒトの持つ問題はほとんどが人間関係のそれである」という言説をもっともっと突き詰めた形ともいえるかもしれない、要は「問題以外を含めた何物もが人間関係のそれである」ということ。

 それを差し引いたらやっぱり「美味しいご飯と安眠できる寝床」みたいなものがある意味、個人における最上位の幸福とでも呼ぶべき概念にやってくる感じはある。

 人が感じる視線や気配。それは人が量子で構成されている以上、「観測」されていることに対する量子反応と考えればある意味必然的に存在するものなのかもしれない。

 つまりやはり個人がありのままであることの条件とは、誰にも観測されない隔絶したモナドの維持といえるのかもしれない。

 予定調和論において、あるモナドは他のモナドから直接影響を受けないとされる。アドラー心理学でも概ね人の心理について似たようなことを言ってる。その根本的な論説は正しいと考えるが、ここで若干の矛盾が生じる。

 量子は観測されることで「影響」を受ける。例えば観測されていない光は波、つまり可能性の状態であるが、観測されることで粒子に収縮するとなる。

 ここから考えると、人は観測されることでその在り方が「波のように多々ある可能性のうち1つで確定される」とみなすこともできる。人は他者の影響は受けないが、他の観測者によって収縮が生まれる点だけは例外だということができる。

 このとき、その人が「用意していない可能性」は選択されえないという意味でモナド論は正しい。しかし、「用意している可能性のうち、どれが選ばれるか」に他者の観測が作用する。

 

 こう考えれば、量子論と予定調和にある種の整合性を見ることができる。つまり多世界理論である。人は常に様々な「パラレルワールド」の可能性を持っており、刻一刻と「観測」により様々な運命を転々としていくという解釈。

 またこうした論理は「人が他者を解釈、評価する」現象の解釈にも援用することができる。

 人はある特定の他者に関して、その相手の様々な側面のうち1つ、または少数を「その人に対する評価」として用いる。これは相手という量子の持つ様々な可能性の中から「観測することでそれを固定化する」という話になる。

 ある人AさんについてBさんが「良い人」、Cさんが「自己中な人」などとまったく相いれない評価を下すことは多々ある。これはもちろんそれぞれの人間関係の在り方と環境によって左右される、という解釈が基本ではあるが、ややオカルトチックではあるが「その人が相手をどう思ったかが相手の行動にそのまま反映される」という論があることに注目したい。

 科学にオカルトを交えるのは本来は禁忌かもしれないが、何しろ量子というもの自体が「既存の価値観や目に見える物質世界においてはオカルトと言われても仕方ないくらい突飛な概念」であるのだから、科学=合理という思い込み自体がヒトの傲慢であると考えよう。

 古来より科学は地動説や万有引力の法則、相対性理論など「トンデモ説だと思われていた論理」をもってして初めて、世界の法則を解釈できるようになってきたという側面がある。つまり科学とは「何故かわからないけどそうなっている。では実際にこの世界はどのように計算できるのだろうか」を解釈する学問と言えなくもない。

 

 さてこの論理に従うと、Aさんという人間はBさんの観測によっては「良い人」の可能性の運命が選択され、Cさんの観測によっては「自己中な人」という可能性の運命が選択されるということになる。

 そもそも「良い」「自己中」という概念自体が主観的であること、人間関係は相性によって大きく左右されるという前提はもちろんあるものの、それを含めての「観測」による影響といえなくもない。

 つまり人は観測されることによって「その場における」その性質と運命が固定されるといっても差し支えはないだろう。

人は他者に観測され続けることで選択肢を失い
人は他者に観測されない状態を続けることで意味消失する

といえなくもない。存在自体が矛盾を抱えている生き物らしいとも言える。

 

 いわゆる「引き寄せの法則」のような「己自身が己に抱く世界観」の固定についても、自己を自己で観測するという行為を行っているのかもしれない。

 何しろ人が「観測」を行うのは脳という領域においてであり、人やそれを取り巻く環境の中のごく一部によって執り行われているのだから。己の心身を己の脳の中の一部の器官によって観測することで自己の可能性の運命から1つが固定される、というのはあながち的外れ考えではないのかもしれない。

 人は古来より「視る」という行為に霊的な力を感じてきた。それは単なるまじないの類ではなく、実際にある種の量子的反応を期待してのものであったかもしれないと思うと、生物の本能とは末恐ろしいものといえる。オーパーツのような何か。